次話 ・ 前話 ・ 小説目次 | ||
To dear friends - 2 学校から数分の所にある住宅街を、はアーサーにつれられて歩いていた。 当初は彼女を家まで送るつもりだった彼だが、彼女の家が少し遠い場所にあると聞き、自宅に連れて行く事にしたのである。 ミッドガルにある住宅の多くは、市の形状と範囲のため、高層マンションが多い。 彼の家も同じらしく、神羅本社程ではないにしろ、見上げれば首が痛くなるような建物に彼は入った。 「で…デカ…」 「建物はな。部屋は2階だ」 だから家賃も安いと言いながら、アーサーはエレベーターのボタンを押す。 乾き始めた髪と肌は、ジュースの糖分でベタベタし始め、香ってくるオレンジの香りには小さく溜息ついた。 降りてきたエレベーターに乗り、言葉の通り2階のボタンを押した彼に、彼女はふと思い出したように言葉を出す。 「あれ?校長先生も一緒?」 「親父達は教員住宅の方に住んでる」 「じゃぁ一人暮らしなんだ」 「…いや、二人だ」 「え?」 誰と、聞こうとした言葉は、チーンという音と共に開いた目の前の扉に遮られた。 足早に廊下へ出た彼に、それを聞きそびれたは、慌ててその後に続く。 もし彼女と同棲でもしているなら、自分を連れて行くのは問題なのではないかと思ったが、家に来いと言ったのはアーサーだ。 それに、相手が異性であるという確証もない。 本人が良いと言うのだから、自分が家に上がっても問題無いのだろうと、考える事にした。 「ぶっ」 「あ…」 考えに没頭していたは、突然立ち止まったアーサーの背中にぶつかった。 驚いたように振り向いた彼は、少し腰を落として視線を合わせながら、彼女の顔を覗き込む。 「平気か?」 「うん。どうしたの?」 「……」 「アーサー?」 「おかえりなさい」 無表情ではあるが、何処か暗くなったアーサーの目に、は首をかしげる。 答えに惑う顔になった彼に、何が、と巡らしかけた考えは、控え目にかけられた女性の声に止められた。 知っている人間にかけるような挨拶と、微かに揺れた彼の瞳に、何処か納得する。 やっぱり女がいるんじゃないかと思いながら、誤解を生む前に説明しなければと考えていると、それより先にアーサーがあちらに向き直った。 彼という壁が無くなった事により見えた声の主は、年はアーサーと同じ頃で、声の通り控え目な印象の女性だった。 守ってあげたくなるタイプだなー…と暢気に考えかけただったが、彼女の大きなお腹に目が点になりかける。 そうならなかったのは、女性の傍らにいる男性が、その肩をそっと抱き寄せたからだろう。 一見してごく普通の、何処にでもいそうな男だったが、彼は何故かをまじまじと見つめてくる。 全く状況がつかめないが、明らかにおかしい場の雰囲気に、はアーサーへ目を向けた。 だが、彼は目の前にいる男女に目を向けるでもなく、にちらりと目をやって、再び歩き出す。 「彼女ですか?」 「クラスメートだ」 「今日は、彼女、帰りませんから」 「………」 歩くアーサーへ、女性の傍にいる男が緊張した面持ちで声をかける。 だが、対するアーサーは、目を合わせないどころか、の手を引いて歩き始めた。 「大事な時期ですし、暫くウチで…」 「好きにしろ」 「…では、これを期に、彼女…」 「荷物は勝手に持ってけ」 え?何この状況… 昼ドラのような雰囲気を感じながら、何が何だかわからないは、アーサーに連れられるまま二人の横を通る。 俯く女性と目が合い、頭を下げられたので軽く会釈をするものの、頭の上でされる男二人の会話は穏便とは言い難い。 相手の言葉を全て聞くまでもなく答えるアーサーに、らしくないと思いながら、やはりとんでもない状況だと思い知る。 敵意剥き出しの修羅場でない事は救いだが、感情を見せなさすぎるアーサーが逆に恐ろしかった。 普段の彼もクールだが、今の彼はクールすぎる。 先程の子供達への態度を見た後だからそう思うのかもしれないが、まるで氷河期のようだと思った。 取り付く島もないようなアーサーの態度にも、男性はめげずに何か言葉を続けようとする。 だが、アーサーにはそれを聞く気は微塵も無いようで、完全に無視しながら部屋の扉を開いた。 何が何だかわからず、態度にこそ見せないものの混乱するは、彼に促されるまま家の中に入る。 廊下でまた男性が何か言っていたようだが、アーサーは無視して扉を閉じたどころか、鍵とチェーンまでかけた。 「………」 「………」 何か…とりあえず…とんでもない状況だよね! どう言葉をかけてよいものかわからず、沈黙してしまったは、耳元で聞こえたアーサーの溜息にビクリした。 振り向きかけた彼女だったが、それより先に彼の手が頭の上に乗り、髪の毛をグシャグシャと撫で始める。 「ちょ、何!?」 「早く靴脱いで上がれ」 見上げた先にいる彼は、先程の態度が嘘のように苦笑いして返す。 不自然すぎると思いながらも、彼の気遣いを無駄に出来る訳が無く、は言われるまま靴を脱いで上がった。 「そこ、バスルーム。使うだろ?」 「うん」 「洗濯機あるから使え」 「ありがと」 鞄をアーサーに預けると、は彼に言われるまま脱衣所へ入った。 生活感が漂うそこに、何故かビクついてしまう自分が奇妙に思えながら、彼女は制服を脱ぐ。 缶ジュース半分という量を侮っていたのか、服どころか下着まで湿っぽくなっていた事に、ガイへの恨みが増した気がした。 乾燥機まで付いた全自動洗濯機を羨ましく思いながら、は着ていた物を中に突っ込む。 廊下にあるキッチンにいるらしいアーサーに、乾燥機も使ってよいかと声をかけると、「壊れかけているから自分がいる時に」という返事がかえってきた。 下着も洗濯機に入れてしまったのだが…何とか見られないようにするしかないだろう。 既に洗濯機の中で水浸しの衣類に、失敗だっただろうかと思いながら反対にある洗面所を見ると、青とピンクの歯ブラシが並んでいた。 アーサーの物だろう青い歯ブラシの傍には、男物の洗顔フォームや化粧水が並んでいたが、ピンクの歯ブラシの傍には何も置かれていない。 廊下にいた女性のものだろうかと、理由は分らないがそう思った。 所謂女の勘というやつだ。 一瞬姉か妹かとも思ったが、彼女とアーサーは似ても似つかない。 何とも言えない気持ちになりながらそれを見つめていただったが、鏡に映った裸の自分に、ハッとしたようにバスルームへ入る。 狭いそこにも、アーサーの物らしいシャンプーが置かれていたが、女物は中身が殆ど空の小さなボトルが数個あるだけだった。 「何で女物探してるの私…」 いや、女だから女物捜すのは当然なのか? 腑に落ちない気持ちを振り払うように、は蛇口を捻った。 出てきたお湯は少し温かったが、暑さが残るこの季節には丁度良い。 クラスの男子の家でシャワーを浴びているなんて、少し不思議な気持ちになったが、意識しかけた気持ちは視界に入った女物のシャンプーによって現実に戻された。 「何なんですかねー…何とも言えませんねー……独り言多いな自分」 ぶつぶつと言いながら、はアーサーの物だと思われるシャンプーを借りる。 これで自分も彼のようにサラッサラヘアーになれるだろうかと考えていると、何処か覚えがある香りがして、『ああ、アーサーの匂いだ』と納得した。 これはどうかと空けてみたボディーソープも、やっぱりアーサーの傍にいると香ってくる匂い。 てっきり香水だとばかり思っていたが、アーサーはカーフェイとは違って香水はつけないタイプらしい。 「随分いい匂いのやつ使ってんなオイ」 バスルームいっぱいに広がるような香りに、は少し良い気分になりながら泡を落とす。 アーサーに抱かれてるよだと、そんな事を一瞬考えてしまった自分に、彼女は慌ててお湯を被った。 「長湯しちゃった…?」 少し温めだったはずなのに、思ったより温まってしまった体に、は苦笑いしながらバスルームから出る。 まだ動いている洗濯機に、着替えをどうしようと考えるまでもなく、その上にはアーサーが用意したらしいタオルと着替えが置いてあった。 「しっかりしていらっしゃる…」 気遣いが出来る男は良いと思いながら、は体を拭くと着替えに袖を通そうとした。 が、ふとそのサイズに手を止め、両端を掴んで広げてみる。 「……」 大体自分に丁度良いサイズ…つまり女物のシャツに、は何故か残念な気持ちになった。 淡い色合いの生地に、薄い模様と小さなリボンがついたそれは、先程の女性の印象と重なる。 確かに女性物があるのなら、それを出すのが当然だろう。 アーサーの物ではサイズも大きすぎるし、期待する方が間違っているのかもしれない。 だが、目の前の服は、せっかく忘れかけた先程の光景を思い出させた。 アーサーと、彼とは似ても似つかないお腹が大きな女の人と、その傍にいた男の人。 働いてしまう女の勘で、3人の関係を線でつないでよいものか。 だとすれば、自分は此処に居てよいのだろうか? あの男女は今頃どう思って・・・ 「…私には…関係ないじゃん」 あれはアーサーの問題であって、彼が望まない限りは自分が首や口を出して良い問題じゃない。 悶々とする考えを押しのけるように、は服に袖を通す。 下着はまだ脱水の最中なので、少し心もとない気がしながら、少しウエストが大きいスカートを履いた。 片腕を突っ込める程余裕があるそれに、持ち主のお腹の大きさを思い出しながら、また胸の中がモヤつく。 激しい運動でもしない限りズリ下がる事は無いだろうが、気遣いが出来るようで出来ていないアーサーに、は小さく溜息をついた。 「お、いい匂い〜」 目の前が台所なせいか、脱衣所から出ると、美味しそうな匂いに出迎えられた。 これは焼きうどんだな、と考えながら、玄関とは逆の方へ廊下を行くと、テーブルの上に二人分の食事を用意しているアーサーがいる。 「アーサー、風呂ありがとー」 「……っ…」 「アーサー?」 「あ…いや…」 を見た瞬間、一瞬表情が固まったアーサーは、首を傾げた彼女にハッしたように視線を逸らした。 パンツを履いていないのがバレたのかと、思わず下半身を見ただったが、自分で見る限りそんな気配は無い。 乳首も浮いてない…と思う。 「どうしたの?何か…変?」 「………」 傍らにより、顔を覗き込む彼女に、アーサーはゆっくりと視線を向けた。 だが、すぐにまた視線を逸らすと、頭をガシガシと掻いて大きく溜息をつく。 「やっぱダメだ…」 「…何が?」 「悪い…。……服脱いでくれ」 「……」 脱げって… 脱げって… 脱げって、そういう事ですか!? いや、ちょっとまてダンナ。確かにアンタは男前でちょっとウハウハだが、そして家に上がったのは私だが、それはちょっといきなりすぎないか!?確かにシャワー浴びて準備万端といえば準備万端だが、心の準備してないべ!?それにアンタあの女の人と同棲してんじゃないの?鬼が居ぬ間に何とかですか?いや、あっちもあっちであの男の人とホニャララな…いやいやいやいや、そうじゃないって!昼ドラそのものとか考えてる場合じゃないって!落ち着け!とにかく落ち着けユーアンドミー!! 「ア、アーサー!?」 「別の着替え用意するから」 「へ?」 嵐のように思考を廻らせるは、彼の口から出された言葉に目を点にした。 だが、そんな彼女に構う余裕も無いアーサーは、の手を引くとリビングを出る。 少し乱暴な彼に、スカートを押さえながら引かれていくは、脱衣所の隣にある部屋に通された。 ドアをあけてすぐ左にあるベッドに一瞬ドキリとしたが、そうさせる本人は彼女の手を放して箪笥の中を漁り始める。 がポカーンと彼の背を眺めていると、ベッドの上に何かが放り投げられた。 バサリと広がったシャツに続き、黒い短パンを投げると、アーサーはこれに着替えてくれと言い残し、足早に部屋を出て行った。 な…何? 何ですかこの状況? 妙に焦ったような彼に呆然としながら、は彼が出した着替えに目をやる。 ダークブルーの大きなシャツに、普通の男が履くとは思えない、丈が短い短パ… 「パンツじゃん!」 ボクサータイプの黒いパンツに、が驚いて声を上げると、ドアの向こうからガタリと音がした。 瞬間、ドアがバンッと空けられ、入ってきたアーサーがの前にある自分のパンツを見て顔を赤くする。 「悪い!」 言うと同時に、彼はパンツをガッと掴むと、箪笥の中に突っ込んだ。 再び中を漁り始めた彼だったが、が履けるものは無かったようで、手を止めるとベッドの方へ行く。 布団を捲り、中にあったパジャマの下を出した彼は、シャツの上にそれを置くと、もう一度彼女に謝って部屋を出て行った。 「…何気に…ウッカリさん?」 耳まで赤くなっていたアーサーに、はつい頬を緩めると、彼が用意した服に着替え始めた。 案の定ガブガブではあったが、脱ぎ捨てた女物の服よりも、何だか落ち着く気がする。 油断すると、ズボンの裾を踏んづけて全部下がりそうだったので、裾の部分を軽くたくし上げておいた。 何故彼が彼女の服を着た自分を見てあんな顔をしたのか、何故脱がせてわざわざサイズが大きな自分の服を着せたのかは・・・・考えない事にした。 「着替えたよー」 「あ…ああ」 部屋を出ると、アーサーは台所で焼きうどんを温めなおしているところだった。 まだ顔に赤みが残っている彼は、出てきた彼女に一瞬目を止め、また視線を逸らす。 だが、それは先程のような目を背けるような逸らし方ではなく、照れ隠しである事が伺えた。 しかし、そんな彼女の視線は、恥かしそうな彼の顔ではなく、彼がつけているウサギさんのエプロンに注がれている。 胸にある大きな顔にはつぶらな瞳があり、耳の部分が肩にかける紐に繋がっているエプロンは、保育園の先生が着ているようなものだった。 「ア・・・アーサー…保父さんみたい」 「そ、そうか?」 少し呆れて言ったはずが、アーサーは嬉しそうに笑顔を返す。 何故そんなに嬉しそうなのだと思うには気付かず、彼は温まった焼きうどんを皿に戻すと、片方を彼女に手渡した。 「俺、本当は保育士になりたかったんだ」 「…いんじゃないの?似合ってると思うよ」 そのウサギちゃんエプロン。 「…ありがと…な」 の言葉に、アーサーは嬉しそうに礼を言うと、ウサギちゃんエプロンを外す。 余程気に入っているエプロンなのか、それとも保育士が似合っていると言われたからか、彼は随分機嫌が良いようだ。 立ったまま器用にエプロンを畳んだ彼は、傍にある引き出しを開け、中にある熊さんエプロンの上に仕舞った。 「…熊さんもあるんだ」 「その下にはリスもあるぞ?」 「マジでか!?」 「マジだ。まぁいいや、飯食うぞ」 是非全部見てみたいと思っただったが、彼に促されてリビングに戻った。 少し狭いソファに二人で座り、テレビを眺めながらうどんを食べる。 初めて来た彼の家だというのに、思いの他くつろいでいる自分にが気付いたのは、半分ほど食べてからだった。 「あの、何かごめんね?色々とさ。ご飯までご馳走になっちゃって」 「…気にすんな。一人よりいい」 「うん…」 言いながら、アーサーはのまだ湿っている頭に手を乗せる。 既に食べ終わった彼はそのままソファに身を預け、指でポンポンと彼女の頭を叩いた。 振り払うのも申し訳ない気がして、彼女は彼の好きにさせながら食事を再開する。 彼の言う『一人』が、自分の事なのか彼を指しているのかは分らなかったが、きっと両方なのだろう。 頭の上にあるアーサーの手の感触に、少し恥かしくなり、意識した途端、ぴったりとくっ付いた体の距離まで気になりだした。 そればっかりは、気を振り払ってどうにかなるものではなく、考えないようにしても、伝わってくる彼の体温がそれを邪魔する。 詰め込むように残りを食べ終えると、アーサーは空になった食器を重ねて立ち上がる。 丁度洗濯機のアラームが鳴り、脱衣所へ向かったは、下着を制服で包んで乾燥機の中に突っ込んだ。 食器を水に浸けていたアーサーを呼び、ボタンを操作してもらうと、彼と共にリビングへ戻る。 また、さっきと同じように彼の隣に腰掛けただったが、元が小さな二人掛けのソファでは、彼との間に距離を作る事は出来なかった。 本来こうして彼の隣にいるのは自分ではないだろうに、彼は全く気にした様子が無い。 室内にある家具はどれも女の子らしいものばかりで、嫌でもあの女性の存在を意識させた。 がそんな事を考えていると知ってか知らずか、彼は長い足が邪魔らしく、テーブルを少し動かすと、またソファに背を預ける。 「俺さ、小さい頃から保育士になりたかったんだ」 「え?ああ、そんな感じだよね」 アニマルエプロンとかさ…。 というか、アレで他にどんな夢を持つのだろうと思いながら、は彼に返事を返す。 テレビを見ているようで見ていない彼は、彼女の返事に少し頬を緩め、だがまたすぐに無表情に戻った。 「18ん時、親に無理言って保育士の専門学校入った。ジュノンにあるとこの」 「へー」 「それで、あっちに行くと同時に彼女と結婚した」 「…学生婚デスカ」 「ああ。さっきのやつ」 「うん」 だから学校で誰に告白されてもOKしなかったのかと、は少し納得する。 結婚していたという事実に驚かないと言えば嘘になるが、女性の存在感がする家の中や、何よりあのお腹が大きな女性の存在を先に知ってしまっていると、驚きよりも納得の方が大きかった。 ならば尚の事自分は此処に居るべきではないと思うのだが、あの女性を連れて行った男性の存在が、その考えを留める。 「2年で卒業して、こっちに戻ってきた。卒業したら士官学校入るって、親父との約束だったから」 「保育士は?」 「神羅で、軍にいれなくなったら…怪我とかさ、そうなった時の為にって言って、学校行かせてもらった」 「あー、なるほどね」 「…ミッドガルに戻ってくる頃には、アイツに他の誰かがいるような気はしてた」 「…うん」 「4ヶ月前…6月ぐらいに、妊娠したって言われた」 「え…」 「でも俺、付ける物は付けてたし、ずっとしてなかった」 「あ、はぁ…ってか、それは…つまり…」 「…俺の子供じゃない」 「………」 オイオイ…。 こんな事を自分が聞いていいのだろうかと思いながら、は導き出された答えに固まる。 まさに昼ドラじゃないかと心の中で叫びつつ、これまで疑問に思っていた事が全て繋がるのを感じた。 天井を見上げるアーサーは、見た事が無いほど疲れきった顔で、大きな溜息をつくと自分の額に手を当てる。 「さっきの…」 「そう。あの男の子供」 「……」 「……先月、こっちに越してきたって尋ねてきた。離婚届と、名前書いた婚姻届持って」 「え…」 「別に何とも思わなかった。子供出来たって言われた瞬間、冷めたから」 「いや、でも…」 「流石の俺も…疲れた。うちの親は別の男の子供作ったって激怒するし、それ宥めるのも俺だからな。だから、子供出来たって知って、すぐに此処に引っ越して。アイツは…状況がコレな上に妊婦だし、情緒不安定で、何で怒らないんだって泣いたり怒ったり」 「………」 「…やっと一つ片付く…」 少しすっきりしたような顔で呟く彼に、はかける言葉も見つからず、その顔を見つめる。 閉じていた目をゆっくり開けた彼は、横目で彼女を見ると、微かに口の端を上げて姿勢を正した。 「励まそうとか、気使ったりするなよ。俺が勝手に喋った事だ」 「あ…」 「俺は悪くないとか、それなりに頑張ったとか、それは知ってる。でも、どうしようもない事だってある」 「うん…」 「一番考えなきゃならないのは、俺とか、あいつらの気持ちじゃなくて、子供の将来だ。だから、これで良いと思ってる」 「…子供、好きだもんね」 答える代わりに、柔らかく笑ったアーサーに、もつられて笑みを浮かべた。 成績や家柄などは別に、彼には敵わないと思いながら、そんな彼の傍を離れた女性に勿体無い事をすると考える。 しかし、それも所詮はどう転ぶか分らない恋愛感情のせいであり、他人がどう思っても、どうしようもならないのだろう。 「アーサー、いいお父さんになれそうなのにね」 「その前に保父さんになりたいけどな」 「怪我とかしなきゃなれないじゃん」 「夢の実現は茨の道だ」 ニヤリと笑うアーサーに、はクスリと笑みを零す。 最初に彼の子供への態度を見たときは、一体何の冗談かと思ってしまったが、この短い時間で既に慣れてしまってた。 自分の適応能力の賜物か、それともウサギさんエプロンの効力が絶大だったからなのか。 とりあえず、今ならリスさんエプロンをつけて子供達と戯れる彼だって、簡単に思い浮かべる事が出来る。 人間の想像力って凄い。 「…はどうするんだ?」 「え?ごめん聞いてなかった」 子供達とお遊戯をするアーサーを想像していたは、彼の質問にハッと現実に戻った。 いつの間にか笑みを消していたアーサーは、それまでの雰囲気とは一転し、真面目な顔で彼女を見つめている。 先程とは違う陰を見せるその瞳に、は少し緊張し、視線を逸らした彼を見た。 「実習旅行…行くのか?」 「…それ、ガイにも聞かれた」 「…ガイだって?」 「うん。モンスターがいて危ないからやめとけって。心配してくれてんのかもしれないけど、ちょっと失礼だよね。過信してる訳じゃないけどさ、これでダメなら、その先は絶対無理じゃん」 「………ああ」 「アーサーも同じ事言わないでしょうね?」 口を尖らせるに、アーサーは目を彷徨わせたが、彼女に向き合う事はせず、そのまま視線を落とした。 黙り込んだ彼の横顔を覗く彼女に、彼は組んだ手の指を数度動かすと、ゆっくりと視線をあわせる。 「行くな」 「………」 態度でこそ察しはついていたが、言葉ではっきりと言われた事に、は一瞬返す言葉を失った。 だが、それ以上に彼女を黙らせたのは、有無を言わせない彼の瞳と、その奥に見えた何処かすがるような色。 普段つけている仮面が剥がれ落ちたように、その表情と瞳で本音を曝け出す彼は、彼女の思考を奪うに十分だった。 「…」 「…何で?」 「…危険すぎる」 「危険って…だって、皆行くんだよ?手に負えないぐらい危ない場所じゃないから、ミディールエリアになったんじゃないの?そりゃアーサーに比べれば私全然弱いけど、でもだからって…」 「お前だけじゃない」 「え…?」 「…誰にも…行ってほしくない」 「何…それ…」 「関係無いんだ。お前にも、アレンにも。強いとか弱いとか関係無い。ロベルトにもカーフェイにも、他の奴らだって行かせたくない」 「アー…サー…?」 少し早口に、まさに吐き出すという言葉通り、アーサーは言葉を紡ぐ。 苦しげに眉を寄せた彼は、が知らない場所にいるようで、それ以上何故という事すら憚らせる。 身を寄せ合うように隣にいて、その体温を布越しに感じているのに、彼がずっと遠い場所にいる気がした。 「もし…」 テレビから流れる音が、流行の歌に変わり、奏でられるピアノの音色が、この部屋にある時計の音と混ざる。 穏やかな旋律に乗って流れる、遠い友への友愛と思い出の歌さえ、真っ直ぐに自分を映す青い瞳の前では、何処か遠い場所の音のように思えた。 「俺が…いなくなったら…」 少し躊躇うように、しかし揺るがない瞳で言葉を綴る彼の指が、そっと彼女の頬に触れる。 優しく撫でる感触は、ゴツゴツとして温かい掌のそれに変わり、の頬を包んだ。 彼はこんな風に女の人に触れるのかと、頭の隅で暢気な事を考える自分と、これは不倫なのではないかと考える自分がいる。 だが、それらの思考は、彼の掌と紡がれた言葉に捕らえられ、言葉になる前に消えていった。 「俺が死んだら……泣いてくれるか?」 その言葉に目を見開いた彼女に、アーサーは取り繕った笑みを浮かべる。 不器用に作られた表情は、叶わなかった夢を嬉しそうに語った笑顔より、何倍も歪だった。 偽り無く温かな彼の瞳は、無理矢理作る笑顔には不釣合いで、は胸の真ん中に深い棘が刺さったような痛みを覚える。 それが一体何なのか、考える間もなく震え始めた唇は、心より答えを知っているようで、少し掠れた小さな声で彼の名を呼んでいた。 途端に霞んだ視界と、熱くなった頬に、温い何かが伝う。 驚くと同様に、少し目を見開いたアーサーは、歪さが消えた綺麗な笑みを浮かべると、彼女の頬を濡らす雫を指先で拭った。 両頬を包まれ、目尻を撫ぜる彼の指に目を閉じると、伏せた瞼の上を撫でた温かな指が、睫毛の上を優しくなぞる。 小さく軋んだソファにゆっくり目を開けると、薄く開いたアーサーの唇が見え、横髪を梳く指に導かれるようには彼と視線を絡めた。 吸い込まれそうな青い瞳に、彼は男の人なのだと頭の隅で考えながら、いつの間にか回された腕に引かれ彼に身を寄せる。 服越しに伝わる暖かさと、互いに伝え合うように高鳴る心音を感じながら、胸の内は穏やかになっていった。 背に回した彼の腕に引き寄せられ、それが合図であるかのように、は目を伏せる。 顔を寄せたアーサーの呼吸を傍で感じ、彼の前髪が頬を滑ると、少しの間を置いてから鼻先が触れるのを感じた。 チャラリラリラチャラリラリラチャラリラリラリラリ〜♪ カンソウガ オワリマシタ カンソウガ オワリマシタ チャラリラリラチャラリラリラチャラリラリラリラリ〜♪ 「っ…!!」 あと数ミリで触れそうだった唇は、廊下の先から聞こえた暢気で明るいメロディーによって引き離された。 我に返ったアーサーは、バッとから腕を離し、彼女もまたサッと彼と距離を取る。 互いに見合う二人の上を、再び乾燥機のアラームが飛び、瞬間、それまで遠かったはずのテレビの音さえ意識の中に入ってきた。 丁度歌い終わった女性歌手が、拍手に包まれてステージを後にすると、流行のお笑い芸人が陽気なメロディーで滅茶苦茶な歌を歌いだす。 「服、終ったな。…着替えるだろ?」 「う、うん」 耳まで赤くなったアーサーは、声だけは落ち着いているが、視線は右往左往と泳いでいる。 つられて視線を泳がせたは、バッと立ち上がると、足早にリビングを後にした。 脱衣場に入る瞬間、ちらりとリビングへ目をやると、こちらを見ていた彼と視線が合い、互いに思いっきり目を逸らす。 逃げるように脱衣所に入り、扉を閉めると、は溜まっていた息を吐き出してズルズルと床に腰を下ろした。 「………ふ…不倫?…いや、もう別れるからOKなのか…いやそうじゃない。そうじゃないだろ自分」 混乱しているせいか、どんどんずれていく思考を無理矢理留め、五月蝿い程早鐘を打つ心臓を抑える。 顔も耳も首まで熱くなっている自分に、どれだけ赤くなってるんだと叱咤しながら立ち上がると、鏡に映った自分は想像以上に真っ赤になっていた。 少し潤んでいる自分の目に、瞼に触れたアーサーの指の感触を思い出し、は慌てて鏡に背を向ける。 乾燥機から服を引っ張り出し、手早く着替えると、少し顔が赤いが、いつもの自分に戻った気がした。 脱ぎ捨てたアーサーの服を畳みながら、その大きさにまた彼の腕の中の感触を思い出す。 心臓に悪いと心の中で叫びながら、数回深呼吸すると、は意を決したように脱衣所の扉を開いた。 「…終ったよ」 「ああ」 脱衣所から出ると、ジャケットを着たアーサーが丁度寝室から出てきたところだった。 服を受け取った彼は、ベッドの上にそれを置くと、リビングから彼女の鞄を持ってくる。 「送る」 「うん。ありがと」 「あとこれ。寒いから」 「ん。ありがと」 彼の手から、また大きな上着を受け取ると、は早速袖を通す。 さっきまで着ていた服と同じく、ブカブカで袖は指がちょっと出るぐらいだったが、彼のにおいがするそれについドキリとした。 今日の放課後までは普通の友達だったのに、今やの中でアーサーの存在はそれに留まらない場所になり始めていた。 いきなりそれは無いのではないかという気もするが、恋は一瞬で落ちる事もあると力説する友人達を思い出し、それも間違いではないのかもしれないと思ってみる。 ただ、これが本当にそれに成り得るのか、それとも一時の気の迷いになるのかは、今はまだ分らなかった。 「あんまりカッコつかないけど」と言いながら出してきた彼の原付きバイクに乗って、寮までの道を走る。 既に暗くなった住宅街は、人通りもまばらで、誰かに見られる事は無かった。 アーサーが少し離れた角を曲がっていくのを見送って、は中に入る。 窓の外から見ていたらしい友人達が、今のは誰だと群がってきたのを何とか掻き分け、逃げるように自室へ入ると、彼女はそのままベッドに倒れこんだ。 明日必ず吐かせてやると、ドアの向こうから物騒な事を叫ぶ友人に苦笑いしながら、まだ残る彼の温かさと香りを手放さないように、彼女は静かに目を閉じた。 | ||
2007.11.04 Rika | ||
次話 ・ 前話 ・ 小説目次 |