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「…………」
、ぼうっとしていないで、それを畳んでくれ」

「あ、はい、すみません」

セフィロスのパンツを膝に乗せて見つめたまま、どこかへ魂を飛ばしているに、彼は軽く注意すると次の洗濯物を畳む。
先日、悪戯心で寝ているにパンツをかぶせてから、彼女はセフィロスのパンツを見ると思考の海に旅立つ事が増えていた。


あの日の朝、先に起きて朝食の準備をしていたセフィロスは、が怒りながら起きてくると思っていたのだが、彼女はいつまで経っても起きてこなかった。
不審に思って様子を見に行くと、彼女はとても真面目な、そして神妙な顔で鏡の前に座り、セフィロスのパンツを頭に被ったり外したりを繰り返していたのである。
変な扉を開いてしまったかと一瞬焦ったセフィロスだったが、彼女が小さな声で「なぜ……なぜ……?」と呟いているのが聞こえて、そのまま扉を閉める事にした。

面白そうだから、気が済むまでやらせておこう。
そう思って30分ほどリビングで珈琲を飲んでいると、ようやくはリビングへ出てきた。
だが、現れた彼女は頭にセフィロスのパンツを被っており、「おはよう」より先に「これ……どう思います?」と聞いてきて、彼の口から珈琲をぶちまけさせた。





Illusion sand ある未来の物語 28




数日置きに夜明けの霧に紛れて山を越え、街の東にある飛空艇を確認すること1週間ほど。
連日の大雨がやんだ次の日の早朝に行くと、離着陸場はシーズンオフの閑散とした様子を取り戻していた。

警戒が杞憂に終わり、は大木の枝に身を隠したまま、安堵の息を吐く。
時計を確認し、夜明けが近いことを知ると、彼女は物見に使っていた木から飛び降りた。

下で待っていたスレイプニルは、の顔を見ると早く乗れと身を寄せてくる。
普通の馬もこれくらい話が通じれば良いのにと内心呟きながら、は素早く背に跨がると、手綱と鬣を掴んでスレイプニルの速度に備えた。


常人では目で追えない速度で走るスレイプニルは、生い茂る藪を突き抜け、立ち入る者のない山々を抜けていく。
今日もいつものように髪や服を木の葉まみれにするは、見慣れた獣道に出ると手綱を引き、スレイプニルの足を緩める。
ゆっくりと歩き出したスレイプニルの背に揺られていると、数分も経たず森が空け、朝焼けに照らされる家と畑が現れた。

鞍から降りると、スレイプニルは甘えるフリをしての体に頭を擦りつけ、容赦なく魔力を吸い取っていく。
主人と違ってかなり図々しい馬は、オーディンを10回くらい召還できそうな魔力を平らげると、満足そうに帰っていった。


リビングの灯りがついていないことを確認しながら、は体に着いた木の葉を払い落とす。
静かに家に入り、寝室を覗いてセフィロスがまだ眠っていることを確認すると、彼女は埃を払うために浴室へ向かった。
シャワーで軽く身綺麗にすると、その足で台所へ向かい、朝食用の食材を確認する。

まだ夜が明けていない空に目をやった彼女は、野菜室で場所を取っている南瓜と使いかけの玉葱を手に取ると、音を立てないように扉を閉めた。
少し季節外れだが、今朝は南瓜のポタージュにしようと決めて、南瓜をまるごと蒸し器に入れる。
棚と壁の間から、折りたたみのカウンターチェアを出して腰掛けた彼女は、念のため携帯でポタージュのレシピを確認すると紅茶の準備を始めた。

セフィロスは、がシャワーを使っている音に気づいていたようだが、眠気が勝ったらしくまだまだ起きてくる気配がない。
飛空艇が去ったことで警戒をする必要が無く、それでなくとも彼を早く起こす理由がないので、は彼を好きなだけ眠らせることにした。

ほんのりとした寒さに、ショールを肩にかけて熱い紅茶に口をつけると、は大きく息を吐いた。
仄かに白い息が空気に溶けていくのを目で追い、窓の外へと目をやった彼女は、夜明けの気配を漂わせ始めた空を眺めた。
西の山際にはまだ月が浮かび、天井に残る星々は、まだ自分達の時間だと言いたげに輝きを放っている。

少しだけ、2度寝しても良かったかもと考えただったが、ここ数日のダラけた生活を思い出して考えを改めた。
雨でぬかるむ地面は動きづらいが、数日ぶりに外で剣を振れるのだ。わざわざ家の中に引きこもる必要はないだろう。
道が乾いていたら、また街に下りようと考えると、はカップを置いて鍋の火をとめた。






「新手の嫌がらせか……?」

夜明け頃から漂ってくる美味しそうな匂いに、セフィロスは寝起きの腹を鳴らしながら起き上がる。
南瓜の甘い匂いまでは耐えて目を閉じていられたが、そこにパンが焼ける匂いまで加わっては、目ではなく胃が起きてしまった。
緩慢な動きでベッドから下りた彼は、朝日に赤く染まる室内から、まだ薄暗い洗面所へ向かうと、冷水で顔を洗って眠気を覚ます。
けれど、半端に起きた体はまだ少し重く、セフィロスは小さくため息をつきながら珈琲を求めて台所へ向かった。


「おや、おはようございます」
「おはよう。珈琲をくれ」

「かまいませんが、まだ眠そうですよ?もう少し休んでいては?」
「匂いで腹が減った。朝食は、あとどれくらいかかりそうだ?」

「あと15分程で、パンが焼き上がりますよ。ソファで休んでいてください」
「頼む」


パジャマのまま現れたセフィロスに目を丸くしたは、半分しか目が開いていない彼に苦笑いして珈琲を準備する。
のそのそとソファに向かった彼は、静かに腰を下ろしたかと思ったら、背もたれに体を預けて天井を眺め始めた。


「眠いなら無理せず寝てきたらどうです?」
「この匂いの中、腹を空かせたままで寝られると思うか?」

「でしたら、せめて着替えてきてください。その姿で食事はなさらないでしょう?」
「……着替えを持ってきてくれ」

「私が服を選んでもよろしいのですか?」
「自分で行く」


の問いかけに、スッと立ち上がったセフィロスは、先程までの寝惚けた動きが嘘のようにまっすぐ寝室へ戻っていく。
初めからそう動けば良いのにと思いながら、鍋の火を止めたは、味見用の小皿と一緒に彼のマグカップを用意した。




、この南瓜のスープ、あとどれくらい残っている?」
「っ……昼食分は残ってますが、お代わりしますか?」

「いや、今はいい。それより、南瓜を植える量をもう少し増やしたい」
「一株でもかなりの量がとれると聞いていますが……そうですね、保存が利きますし、余るくらいでも大丈夫でしょう」


結構な早さで南瓜のポタージュをたいらげたセフィロスに、は小さく笑みを零しながら畑の様子を思い出す。
既に南瓜は植えているのだが、種まきしたのは春。今から増やすなら、苗を買ってこなければ間に合わないだろう。
正直、どれだけの量を収穫できるのか、そもそも無事に実が出来るまで育てられるのかわからないので、多少多めに作るのは賛成だった。

雑草取りは午後にして、朝から街に行った方が良いだろうか。
そう考えながら、件の飛空艇が街からいなくなった事と合わせて伝えると、セフィロスの顔から少しだけ緊張感が抜ける。
気にしないようにしていても、やっとこの生活に腰を落ち着けたところで過去に追い回されるのは、十分なストレスだったのだろう。
自分が撒いた種なのだから、自分で解決しようと思うのは仕方ないが、そこら辺まで昔に戻らなくて良いのにとは思う。
責任感があるのはセフィロスの良い所だが、星を滅ぼそうとしていた時期のような、現実を見ているようで全力で逃げている姿勢だって、少しは残っていて良いと思う。


「貴方は本当に不器用な人ですねぇ……」
「いきなり何だ?」

「いえ。ただ、そういう所も含めて、私は貴方が好きですよ」
「……何かやらかしたのか?誘ってるのか?どっちだ?

「何でそうなるんですか。……もういいです。食べたら出かける準備をしてください。街に下りて南瓜の苗を買ってきますから」
「待て。面倒事になる前に正直に言え。何をした?まさかあの飛空艇を沈めてきたのか?」

「そんなわけないでしょう。貴方、私をなんだと思ってるんですか」
「色々な意味で目が離せない女だ。何もしていないならいい。……歩き方も直っているな。もう体は平気か……」

「どこ見てるんですか!とっとと食べて食器を片付けてください」
「……悪かった」


耳まで赤くして怒るに、セフィロスはそれ以上からかうのをやめて食事を再開する。
数日前まで、は股に違和感があると言ってちょっと足を横に広げがちな歩き方だったが、今日はもう普通の歩き方に直っている。
処女は事後に歩き方がおかしくなるというのは本当だったのかと、セフィロスは密かに感心して見ていた。
無理はさせていなかったが、体が慣れるまでは事後に違和感があるものらしい。
次も気をつけてやらなければと思いながら、セフィロスは空になった食器を持って席を立った。

ポタージュを耐熱容器に移すを横目に、セフィロスは水に浸けられた彼女の食器と自分が使った食器を洗う。
ダイニングテーブルを拭きに行ったが戻ってくると、セフィロスは彼女の機嫌が普通に戻っている事を確認し、皿を拭こうと伸ばされた手を掴んで止めた。


「どうしました?」
「…………」

「セフィロス?」
「……いや、どう言うつもりだったか、考えていたが、思い出せなくなった」

「何をですか?」


振り向いて首を傾げるを前に、セフィロスは思考が空白を漂い始めて視線を泳がせる。
確かに色々考えていたはずなのだが、色々考えすぎたせいで長くなったからか、いざ口にしようとしたら頭の中で文書がこんがらがって言語にならない。
日を改めた方が良いだろうかと一瞬考えたが、以前自分が言ったことを考えると、これ以上先延ばしにするべきではないと判断した。
多少支離滅裂だったとしても、には散々格好がつかない姿を見られているので、仕方ない人だと言って許してくれるだろう。


、街へ下りたら、役所で手続きをしたい」
「かまいませんが、何の手続きですか?あと、手が震えてますが、大丈夫ですか?」

「あまり大丈夫じゃないが、何とか意味を理解してくれ。俺がお前の名前を呼べるようになったら結婚してほしいと言ったのを覚えているか?」
「それは、覚えていますが……あの、本当に大丈夫ですか?手どころか体も震えてきてますよ?顔色も……」

「少し遅れたが結婚してくれ。だから今日役所に行って手続きをする。それと……すまない、緊張で吐きそうだ。返事は後で……間に合わない」
「セフィロス!?大丈夫ですか!!」


声と口調は落ち着いているのに、本当に緊張だけかと疑うほど全身ガタガタ震えるセフィロスは、顔を赤と青に目まぐるしく変えながらプロポーズすると、そのままシンクに顔を伏せて食べたばかりの朝食を吐き出した。
彼の突然の奇行に、は目を丸くして彼の背中をさすり、エスナとケアルガをかける。

今、確かにセフィロスから改めて求婚されたのだが、もう既にそれどころじゃない。
から水を受け取り、何度も口の中を濯いだセフィロスは、残った水をゆっくり飲むと、シンクに水を流して吐瀉物を流すを涙目で見つめる。


……すまない」
「え?何がですか?」

「酷いプロポーズだ……」
「…………大事なのは、貴方のお気持ちですよ。一生懸命言ってくださったんでしょう?ありがとう、セフィロス。とても嬉しいですよ」


まさか前回の酷さを超えるとは思わなかったが、許容範囲内なので大丈夫……などと、流石に口にできなかったが、はそれとは別の、思ったままの本音を返す。
セフィロスのことなので、多分また何かの折りに求婚し直してくれるだろうと思って、は彼に温かい笑みを返した。


「今度……次こそ、ちゃんとする。だから、ちゃんとできたら結婚してくれ……」
「貴方に何度も求婚していただけるなんて、嬉しいですね。貴方が納得できるまで、何度でもお付き合いさせてくださいな。楽しみにしていますね」

「ああ。……情けない姿を見せてすまない」
「いいんですよ。ですが、それが貴方の重圧になるのは嬉しくありませんから、役所の手続きは今日してきてしまいましょう」

「……だが……」
「求婚、お受けします。これからもよろしくお願いしますね」

「……すまない。次は、本当に、ちゃんとする……」
「何度してくださっても大歓迎ですよ。むしろ、失敗して下さったほうが、何度も求婚していただけて嬉しいので、あまり堅く考えすぎないで下さいね」


吐瀉物の香り漂うプロポーズなど予想外もいいところだが、ちゃんとやりなおすと言ってくれているし、また彼に求婚してもらえると思えば悪くない。
吐いてしまったのは、彼のトラウマの何処かに引っかかったのかもしれないと、は笑顔を絶やさないまま考える。
何だか漠然と思い描いていたイメージと違う感じで求婚されたが、同時に、何となく予想していた通りになった気もするから不思議である。
普通は断るか嫌な気分になるのかもしれないが、目の前でこの世の終わりのような顔をしているセフィロスを見ると、まず彼を慰めなければと思うし、それが正解で一番大事な事なのだろうと思った。


「そうですね……では、貴方に、妻として最初のおねだりをしてよろしいですか?」
「っ……何だ?」

「あ、大丈夫ですか?」
「何でもない。言ってくれ」


『妻』と『おねだり』という単語に加え、それをして良いか聞いてくるがいじらしく思えて、セフィロスはおかしな声を上げそうになった口を咄嗟に押さえる。
それを吐き気と勘違いしてまた背中をさすってくれる彼女の手の感触に、つい身を固くしてしまったセフィロスだったが、浮かれすぎた自分が何をするか分からないことだけはわかって、とにかく自分を必死で抑えた。


「では、毎年、この時期になったら、また私に求婚の言葉をください。貴方が納得できる言葉を言えるまででかまいません。どうでしょうか?」
「失敗したら、1年後……だが、下手をしたら、ずっと上手く言えないかもしれないぞ?」

「でも、それはまた貴方が1年後に求婚してくださるという事でしょう?私の楽しみは増えますね。ああ、お嫌でしたら、無理にとは言いません」
「……だが、本当にお前はいいのか?普通はプロポーズに夢だとか、理想だとか、あるだろう?」

「戸籍の手続き自体は今日してしまうのでしょう?なら、後は気持ちの問題ですよ。お互いが納得できるなら、それで良いではありませんか」
「プロポーズする度に、俺が吐いたとしても……ああ、最悪だ。さっきのは本当に最悪だ……」

「そう落ち込まないで下さい。気分が悪くなりながらも、必死に言ってくださった事は、本当に嬉しく思っているんです。セフィロス、貴方は納得できなかったかもしれませんが、私は本当に、先程の求婚でも十分なんですよ?」
、そこは……俺を甘やかしては駄目なところだ」


魔法の効果もあり、嘔吐の疲労が収まってきたセフィロスは、一度深くため息をつくとシンクから顔を上げ、青い顔でを見下ろす。
眉間に皺を寄せて口を引き結んでいる彼に、は仕方がない人だと眉を下げると、両手を伸ばして彼の体を引き寄せた。
彼女の手に呼ばれるまま身を屈めると、彼は力の入らない腕で抱擁に応え、肩口に顔を埋める。


「……蘇ってから、お前には、酷い姿ばかり見せている気がする」
「ですが、昔は、私が貴方の存在に頼ってばかりだったでしょう?むしろ、今そのバランスをとっているのかもしれませんよ?」

「そうだといいが……段々、男としての自信が無くなってきた」
「貴方がご自分をどう評価したとしても、私には貴方が誰より素敵な方ですよ」

「わかっている。何度も聞いた。……だが、すまない、もっと言ってくれ。酷いプロポーズをしたくせに、こんな事を言って救いようがないのは分かっているが、お前に慰めてほしい」
「私の言葉で慰めになるのなら、いくらでも。セフィロス、私は貴方が甘えられる存在でいられる事が嬉しい。貴方が心を預けられる場所が見つけられて良かった。それが私であることが、何より嬉しい。ずっと、貴方に頼られ、支える事が出来たらと思って見ていました。それが、こんなに幸せだとは思わなかった。セフィロス、たとえ貴方がどんな姿を見せたとしても、貴方と共にいられるなら、私はそれだけで十分なんです」

、もっと……」
「どうか、私を離さないでください。こんな面倒な女を制御できる男性は、世界中を探しても貴方だけです。一緒にいるためだけに、喜んで人間から化け物に立ち居位置を変える厄介な女を、当たり前に受け入れられる心の広さは、そう持てるものではありません。そんな貴方でなければ……」

「待て。ちょっと、何か違う」
「んむ?」


まだ話の途中なのに、の唇を指で押さえて止めてきたセフィロスは、彼女の肩にもたれたまま首を傾げている。
何か間違えただろうかと考えるだったが、そのまま言葉を続ける雰囲気ではなさそうだったので、とりあえずセフィロスの思考が戻ってくるのを待つ事にした。

数秒考え、の肩から顔を離したセフィロスは、彼女と至近距離で見つめあったまま、また少し考える素振りを見せる。
これは余計な事を考え出す兆候かもしれないと考えたは、彼の指をそっと唇から避けると、彼に触れるだけの口付けをしてその意識を自分に戻した。

すぐに離れた唇に、セフィロスは目を丸くし、けれど、また視線を明後日の方向へ向けて何か考え出す。
その反応に、今度は唇に歯を立ててやろうかとが考えたところで、彼は何かに納得したのか小さく頷くと、彼女と額を重ねた。


「確かに、お前のような規格外の女でなければ、俺は手に負えないな」
「……ええ。お互い様ですね」

、俺は、自分がモンスターのように作られた事が許せなかった。だが、それを知ったとき、お前も初めから普通の人間として生まれていなかったことを思い出して……最低だが、少し嬉しかった。そばにいなくても、お前は俺を独りにせずにいてくれる……俺たちは、化け物同士で、お似合いだったのかとな。だが、お前はいなくて、俺は独りだった。どうして隣にお前がいないのか、不思議にすら思った」
「……そばに、いましたよ。姿は作れませんでしたが、その時も、私は貴方のそばで、貴方を見ていました」

「……ああ」
「ずっと、いたんです」

「分かっている。あの時は受け入れられなかった。見えていないふりをしていたが、お前は……お前の砂は、ずっと俺のそばにいたな……」


肉体を失い、それでも精一杯存在を示してくれていた象牙色の砂と、見て見ぬふりをしていた自分の弱さを思い出して、セフィロスは目を伏せる。
けれど、過去の痛みを感じるより先に、今ではよく知る柔らかさが唇に触れて、彼の意識は引き戻された。
古くなった記憶と変わらず、まっすぐに見つめる彼女の黒い瞳は、目の前にいる自分を見ろと訴えてくる。
その力強さに、不意に目の奥が熱くなって目を伏せると、彼女はまた目を開けと口付けで訴えた。

自分が何処に堕ちていこうと、彼女は諦めずこの手を引いてくれるのだろう。

そう思える感覚にさえ、どこか懐かしさを感じて、セフィロスはは思いを胸に刻む代わりに、と唇を重ねる。
細い腰を引き寄せ、絹糸のように触り心地が良い髪に手を差し入れて彼女の頭を支えると、うなじに触れた指に彼女の体が微かに震えた。
そんな反応に悪戯心を出す余裕もなく、柔らかな唇を食み、歯列を舌で執拗になぞって、音を上げた彼女の舌と自分の舌を絡める。

力が抜けていくの体を支え、離れそうな唇を咎めるように舌と唇を摺り合わせた。
唇から引き出された彼女の舌を唇で軽く吸い、吐息と共に口から零れた唾液を舐めとると、緩んだ唇が薄く開き彼女の舌が彼のそれを出迎える。
望まれるまま、喜びのままに、セフィロスは再びの口内に入り込み、角度を変えて彼女の中に舌を這わせた。

けれど、不意に、の口内から感じる南瓜のポタージュの残り香に気がついて、セフィロスは自分の匂いを思い出し、口を離した。
だが、不快感を示すどころか、口から舌を覗かせたまま頬を染めて虚ろな瞳をする彼女を前に、セフィロスは考えるより先にその咽に噛み付く。

の喉笛に押しつけた舌で、彼女の咽から吐息と共に漏れた声を感じながら、セフィロスは視界の端に見える時計を睨んで煩悩を落ち着かせる。
朝の7時も回っていない時計の針に、まだ早朝まだ早朝と自身に言い聞かせていると、口に感じていたの呼吸は落ち着いていった。

そっと口を離し、の細い首についた自分の歯形に、征服欲が満たされると同時にまたやってしまったという気持ちになる。
息は整っても力が抜けたままな彼女の体を支えると、セフィロスはもう一度、彼女の額に自分の額を重ねた。



「……ぁい」

「昔も言ったが、もう一度言う。俺のそばにいて、離れるな。後ろでも、前でもなく、俺の隣にいろ」
「……はい」

「……もう朧だが、覚えている。お前が言った、凡庸な生活、凡庸な結婚、凡庸な幸せ。子と孫が出来て、凡庸な老後を向かえ、同じ時、同じ場所で死に、同じ棺桶に入れられて眠る。……今のこの体では、子供も孫も出来ないし、死ぬのもどれだけ先かわからん。だが、お前が叶えたいと言った事の半分は、叶えられると思う」
「……あ……」

「長い間待たせて、すまなかった。結婚するぞ、
「……ええ、喜んで」


柔く細められたセフィロスの目を、同じ目で見つめ返しながら、は頷いて返す。
震えだして吐いた時は心配したが、落ち着けばちゃんと求婚の言葉を言えたセフィロスに、は内心で少しだけ苦笑いした。
先程した初めてのおねだりが、早くも有耶無耶になりそうな気がしたが、彼が納得出来るのなら良いかと思う。
けれど、ふと、自分の体……正確には、鼻の奥に、近頃おなじみになりそうな違和感を覚えた。
もしやと思って確かめようとしたが、体も頭もセフィロスに捕まえられていて動けず、自由なはずの視線さえ彼の笑みから離れられない。

まずいぞ。

思うと同時に自身に回復魔法をかけたが、僅差で間に合わなかった生温かさが鼻の奥から下りてきて、は諦める。
の目の変化に気づいたセフィロスが、微かに眉を上げると同時に、赤い血が彼女の鼻から伺い出てきた。


「……待っていろ。今、ティッシュを取ってくる」
「ありがとうございます」


遠い目になっているに、セフィロスは生暖かい笑みを向けると、リビングへ足を向ける。
シンクに屈み込んで垂れてきた鼻血を流すは、どうしてこうなるんだろうかとぼんやり考えたが、蛇口に歪んで映る真っ赤な自分の顔と、首についた彼の歯形を見て納得した。

早く耐性をつけたいな〜と思いながら、はセフィロスが差し出したティッシュで血を拭う。
プロポーズして吐く男と、プロポーズされて鼻血を出す女の組み合わせなど、あまりいないかもしれない。
昔はもうちょっとお互い格好を付けるところは上手くできていたのに、今では大事な時ほど変な事が起きている気がした。


「お手数おかけします」
「気にするな。俺もさっき吐いた」

「……上手くいきませんね、お互い」
「……ああ。それと……吐いた後なのに舌を入れて悪かった。つい、忘れてしまった」

「濯いでいらっしゃったので、思ったほどでは……。次から、気をつけていただければ大丈夫ですよ。それより、首を噛まれる方がちょっと苦しかったですね。出来れば、気管周りを噛むときはもう少し優しくお願いします」
「……ああ、わかった。覚えておく」


まだ赤みが引かない顔で歯形に触れながら微笑むに、セフィロスは噛みつくこと自体は良いのかと、内心で口の端を釣り上げる。
の肌に触れると、昔からなぜか歯を立ててしまうし、先日初めて抱いた時は鬱血跡どころか噛み跡をつけたがる自分に驚いて咄嗟に自制した。
気を使って拒絶しなかったのかと思ったが、今のの様子をみると、噛み跡を指でなぞる姿は熱っぽく嬉しそうに見える。


ガタンッと、耳に入った大きな物音と、掌に感じる少しの痺れ、目の前にある目を丸くするの顔に、セフィロスは音を立てたのが自分だと理解した。
シンクを背に追い込まれ、上体を反らせていると見つめ合う彼は、視線が彼女の首の跡に向かうのを自覚して、天井を見上げるときつく目を閉じる。


、今何時だ?」
「え?時間?今は……7時くらいですね」

「そうか。早朝だな。まだ朝だ。まだ、朝早い時間だ」
「あ、はい。あの……どうしたんですか?」

「俺はさっき吐いた。まだ歯を磨いていないし、ゲロ臭い。そうだ。俺は今ゲロ臭い」
「え?あの、あまり気にしすぎるほどでは……」

!」
「はい!」

「俺は歯を磨いてくる。吐いて胃の中が空になったから、何か負担にならないものを用意しておいてくれ」
「ああ、では、ポタージュを温め直しておきますね。それで……どうしたんですか?また体調が?」

「大丈……いや、正直に言うと、お前を抱きたくなった。だが、今はまだ朝だ。早い時間だ。この後街へ出かけなければならない。まだ早朝だ。7時だ」
「だ……え、あ、はい……いえ、はい。あ、そうだ、街の役所は9時半からですから、出かけるまではまだ時間がある……」

「歯を磨いてくる!そのあと街に出るぞ!」
「ひぇっ!はい!」


時間があるので、外で刀を振ってきても大丈夫。
そう続けたかっただったが、怒鳴るように言って洗面所へ向かったセフィロスに、驚いて口を閉ざす。
抱きたくなったと言われて驚いたものの、早朝だからと自制している彼に、なら大丈夫かと思った途端に大声を上げられたのだ。
なぜ声を荒らげられたのか確信のある答えが出せず、彼が閉めていったリビングの扉を呆然と眺めながら、は首をかしげる。
よくわからないが、とりあえずセフィロスが落ち着いたら正直に聞こうと考えて、はポタージュを温め直した。









2022.11.28 Rika
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