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初めに気づいたのは、水面を揺蕩うような心地良さだった。

霞がかる思考は意識を繋ぎ止める事さえ思いつかないが、荒波が過ぎ去った後のような大きな安心感だけはわかった。
ここが深い眠りの中だという事を漠然と理解して、次いで、今自分を包む流れが懐かしい人の魔力だと気づく。

どこにいるのかと探すまでもなく、願望が作る幻想だと目を背けるまでもなく、見失わないようにと繋ぎ止めるまでもない。
感知できる所全てを満たし、包み込んでくれる彼女の力の中で、今更行き先を見失うことなとあるはずもない。

久方ぶりの穏やかな微睡は心地よく、ずっとここにいたいという思いが、意識を更に深い眠りへと誘った。
けれど、何か忘れているような、やるべきことは眠りではないような気がして、意識の瞼を閉じきれない。

忘れているのは、一体何だっただろうか。

ぼんやりと考え、その瞬間に脳裏を過ぎった眠る直前の記憶に、セフィロスの意識は一瞬で覚醒して重かった瞼をこじあけた。





Illusion sand ある未来の物語 08








「おや、今度こそ目が覚めましたか?」

夕暮れか、朝焼けか。
窓から差す橙色の光に白い頬を染めたが、楽しそうな笑みを浮かべながら首を傾げる。
柔らかいシーツの感触や見覚えの無い壁、どこか覚えがある風景は、意識する間もなく思考から追い出されていく。

彼女の姿を食い入るように見つめ、朧になりかけていた記憶の姿と確かめ合わせるセフィロスは、頬にかかった髪を払おうと触れた彼女の手を無意識に捕らえた。
目的を果たさず捕まえられた手に、彼女は少し目を丸くして、けれどすぐに小さく笑いながら肩の力を抜く。


「よかった。ちゃんと起きて下さいましたね」
「…………」

「昨日も、一昨日も、この時間に目を覚まして、でもすぐに寝てしまったんですが、覚えていますか?まさか、寝起きが良い貴方が寝ぼけるとは思わなくて、体に不具合があったかと焦りましたよ」


思い出してクスクス笑いながら、はセフィロスの手を握り返す。
意識ははっきりしていても、思考がついていっていない様子の彼に、彼女は確かめるように彼の目を見つめ返した。


「……やっと、私を見つけてくれましたね、セフィロス」


確かに自分を映している彼の瞳に、の顔には自然と笑みが浮かぶ。
それでも、余裕がない彼は反応ができないようだったが、それでもよかった。

気が済むまで好きにさせよう。彼が声を出せるまでこのまま待とう。
そう考えていただったが、次の瞬間、彼の目から溢れ零れていく雫に、思わずギョッとする。


自分の涙に気づいていないのか、構う余裕がないのか、セフィロスは表情を変えず濡れた瞳で彼女を映し続けている。
だがすぐに、彼は長い睫のせいで視界が滲んでしまったらしく、目を眇めて眉間に皺を寄せた。
その顔が意外に可愛らしくて、はつい笑ってしまいそうになったが、とっさに表情を抑えて何とかこらえる。

彼の涙を拭いてあげたいが、今手元はタオルもハンカチも無い。
仕方なく自分の服の袖を使おうと、はそれまで腰掛けていた椅子からセフィロスが寝ているベッドに移る。

そんな間にも、彼が使う枕カバーも耳元の髪も涙で濡れてしまっていて、彼女は苦笑いを零しながら空いている手を彼の目尻に伸ばした。
けれどその手も、先に延ばした手と同様に目的を果たせず、彼の手に捕らえられてしまった。

これでは何もできそうにない。

別に、今何かをしでかすつもりは全く無いが、両手を捕まれた状態では姿勢を変えることもできない。
けれど、握られた手を離そうという気には当然ならず、彼女は彼の瞳を見つめ返しながら、その手を柔く握り返した。


窓から差す光が、暁から朝の白へと変わり始める。
が感じたほんの少しの肌寒さを察したのか、掌以上の実感を求めたのか。
セフィロスは握っていた手で、手首、腕、肩と、の体を辿り、求められるまま体を傾けた彼女の体を引き寄せた。

背中に回された手に呼ばれるままセフィロスの腕の中に収まった彼女は、頬を包む手に従って間近にある彼の目を見つめ返す。
濡れているセフィロスの目元に袖を当てると、大人しく瞼を伏せてくれるが、涙は彼の意思とは関係ないように後から後から流れてくる。
どんどん湿っていく袖と枕に、は諦めて彼の涙が収まるのを待つ事にした。



セフィロスが目覚めたら、自分ももっと感傷的になるかと思っていただったが、二度も寝ぼけられて肩すかしを食らっているせいか、想像以上に落ち着いていた。
彼の体温で暖かい布団に、眠気を誘われてしまいそうな気がしたが、流石に今はやめておこうと彼女は少しだけ気力を調える。
はセフィロスの姿は見慣れているが、彼にとっては数十年ぶりに目にするだ。
捕まえられて、穴が空きそうなほど見詰められても、仕方ない気がした。

時折動く彼の唇が、何か言おうとしては、躊躇うように閉じられる。
姿を見ることはできても、名を呼んでくれるほどセフィロスの不安は簡単に消えていない。
少し残念だったが仕方がない事だと考えたは、遅かれ早かれ呼ばれる時がくるのを楽しみにしようと考えた。

もしかしたら、この後すぐに落ち着いてアッサリ呼んでくれる可能性もある。
二度も寝ぼけられたからあり得る。

そう考えてつい小さく笑ってしまったに、セフィロスの顔が怪訝なものになる。


「すみません、何でもありませんよ」


謝っているのに、彼の表情と物言いたげな視線が懐かしくて、の頬は更に緩んでしまった。
徐々に険しくなっていくセフィロスの視線に、弁解しようとは思うのだが、彼の表情の変化が嬉しくて説明する言葉を上手く見つけられない。
けれど、言わなければ彼の気を悪くさせてしまうので、黙ったままでいるわけにはいかなかった。


「気を悪くなさらないでください。貴方が、私を見てくれているのが、嬉しいんです」
「……っ……お前は……」


何か言おうと唇を動かしたセフィロスだったが、言葉よりも好意をさらけ出してくる彼女の目に、返す言葉が思い浮かばなかった。
昔のは、手を伸ばせば届くと分かる穏やかさで、瞳の中の感情を覆って見せてくれていた。
けれど、数十年ぶりに見た彼女の目は、柔らかく微笑んでいるものの、愛しくて仕方がないと声ならぬ声で訴えてくるようだ。

目覚めたばかりの働かない頭で、が確かに目の前にいると理解できたまではいい。
けれど、その目にある感情の分かりやすさは、セフィロスが一瞬別人かと思ったほどだ。

だが、がライフストリームの中で雄叫びを上げていた事を思いだし、むしろ目覚めた瞬間に剣を掲げて吠えられずに良かったと思った。
そう思ったら、流れていた涙がピタリと止まって、セフィロスは何とも言えない気持ちになる。その気持ちに懐かしさをおぼえて、また複雑な気持ちになった。

セフィロスがそんな事を考えているとは露知らず、は暢気に声が出るようでよかった思っていた。
の言葉に一瞬頬を赤くし、次の瞬間、遠い目になって顔色が戻ったセフィロスの反応に、彼女は内心で首を傾げたが、特に文句があるわけではなさそうなので、気にしない事にした。
自分の頬や空気が緩みきっているのは自覚しているし、それにセフィロスが少し戸惑っているのは分かるのだが、これでもは大分抑えているつもりだった。
そうでなければ、とっくに外に飛び出して快哉を叫んでいるだろう。


彼の涙が止った事に少し安心しながら、は彼の目尻と頬に残る雫を服の袖で優しく抑える。
セフィロスの気持ちがもう少し落ち着いたら、ゆっくり話ができるだろうと待つ気でいたが、少し身じろぎした彼はすぐに起き上がってしまう。
耳元の髪を気にして触れる姿に、単に濡れた枕の感触が嫌だったのだと分かって、はまた小さく笑みを零した。

「枕、すぐに洗濯しましょう。このまま起きますか?もう少しお休みになるのでしたら、私の枕を使ってください」
「いや、このまま起きる」

「わかりました。洗面所に行きましょうか」
「ああ」


長く眠っていたからか、涙を流したからか、セフィロスの表情には少し疲れが見える。
そんな彼に片手を握られながら、は涙を吸ってしっとりしている枕を手にベッドを降りた。

日に一度は彼の体を拭いていたが、話より先にシャワーを求めるだろうか。と、そんな事を考えながら部屋を出ようとしたところで、繋いでいた手を軽く引かれては立ち止まる。
振り返れば、セフィロスは少し驚いた顔で、寝室の中を確かめるように見回していた。


「覚えていますか?」
「同じものを……探したのか?」


部屋の大きさや窓から見える景色は違うが、置かれている家具や棚の本は、殆どが記憶にあるものだった。
壁紙も、備え付けのクローゼットの位置だって全く違うのに、視線を巡らせると所々で時が戻るような錯覚がする。


「いえ。ルーファウスが、取っておいて下さいました。貴方が亡くなってすぐ、新羅が処分する前に抑えたそうです。流石に、痛んでいた物や古くて使えそうにないものは処分しましたが……」
「何故、奴が……?」

「自分が死ぬ前に灰にして、私達の墓を作るつもりだったそうですよ」
「奴が、そう言ったのか?」

「ええ。意外でしょう?色々経験したからか、年をとったせいか、彼は昔より随分と丸くなりましたよ。相変わらず意地は悪いですがね。昔から、随分良くしてくれましたから……彼なりに、色々思うところがあったのでしょう」
「……」

「もし、あの頃の家具が嫌なら、遠慮なさらずに言ってください。全て新しくするのも、悪くないでしょう。貴方が思うようにして下さって良いですからね」
「……考えておく」



簡単に過去を割り切れないセフィロスに、は気にしたそぶりを見せず手を引いて廊下に出る。
辺りに視線を巡らせている彼に合わせて、ゆっくりと足を進めた彼女は、玄関そばにある洗面所に彼を招き入れた。


「右が浴室ですが、入りますか?お湯は魔法ですぐに入れられますが」
「お前は…………いや、後にする」

「そうですか?迷っているなら、入ってきてかまいませんよ?」
「いや、そうじゃない」

「では何でしょう?」
「お前が、水道を使わずに風呂に入っていた事を思い出したのと、まだ、魔法で湯船の湯を作るのかと思っただけだ」

「機械でお湯を沸かすより、早いでしょう?」
「ああ、そうだな……そうだった」


当時、がキッチンのガスコンロでファイアを使っていた事を思い出していると、栓をした洗面台の中にお湯が現れる。
の魔力で作られたお湯を見つめながら、家に水道を引く必要は無いのではないかと考えていると、彼女は普通に枕を洗濯機にかけた。
その際、風呂や洗面助のように魔法を使う様子は無く、洗濯機と繋がっている水道の水を使っている。


「洗濯の水は魔法で出さないんだったか」
「ええ。最初に貴方に教えていただいたとき、そういう仕様の機械だと聞いたので」

「そうだったか……そうだったな」
「あ、ですが、中の水は40度まで温度を上げていますよ。急ぎの乾燥は魔法を使いますし」


では、この洗濯機の上にある真新しい乾燥機は使うことは無いのだろう。
なのに何故あるのだろうかと思ったセフィロスだったが、が自分を待っていることを思い出し急いで顔を洗う。
程よい温度のお湯に、少しだけ風呂で汗を流した方がよかっただろうかと考えた。
だが、今、顔を洗う間すら、の手を離している事が落ち着かない自分に気づいている彼は、不安を流すように顔を濡らすと、彼女が差し出したタオルで乱暴に顔を拭った。

その間に栓を抜いてセフィロスが飛ばした水滴を魔法で乾かしていたは、顔を拭うなり手を取ってきた彼に少し驚き、けれど問いかけることはせずに彼の手からタオルを受け取る。
少しだけ気まずそうな顔をして、けれど安心した様子の彼に小さく笑みを零すと、はまた彼の手を引いて廊下に出た。


「寒いでしょう?ここは人里から離れた山の中なので、どうしても冷えるんです。すぐに暖炉に火を入れますね」
「暖炉があるのか」

「ええ、リビングだけですけれど。そう広い家ではありませんから、すぐに家全体が暖まりますよ」
「そうか」

「ええ。あと、台所を少し改修して、土間と竈も作ってもらったんですよ。後で見て下さい」
「……竈……」


初めてセフィロスの家に来た日、『竈はどこですか?』と真面目に聞いてきた彼女の姿を思い出す。
その後も、ガスコンロに慣れることができず、竈や焚き火での調理を恋しがっていた彼女の希望は、数十年ぶりに叶ったらしい。
ルーファウスに頼んだのだろうが、この時代に、よく竈など用意できたものだと思う。


廊下の突き当たりにある扉を開くと、昔住んでいた部屋のそれより少し大きめのリビングがあった。
が言っている通り、奥には暖炉があり、それを境に右はリビングスペース、左はダイニングテーブルがあった。
そのまま視線を左手前に移せば、現代的なキッチンと、その奥に続いて作られた土間と竈が見える。


『本当に竈がある……』


つい心の中で呟いたセフィロスは、あまり深く考えないようにと視線をリビングに戻す。
そこにも、記憶にあるテーブルや絵画を見つけたが、竈を目にしたインパクトのせいか、寝室で気づいたときほどの関心は持てなかった。


「ソファで待っていて下さい。今暖炉に火をいれますから」


に促されて、セフィロスは真新しい布張りのソファに腰を下ろす。
けれど、すぐにまた落ち着かなくなって、暖炉前にいるの傍に膝をついた。


「すみません、今は手が塞がっているので、服の裾で我慢していただけませんか?」
「……嫌だ」


傍らに戻ってきたセフィロスにちらりと視線をやり、申し訳なさそうに服の端を視線で示しただったが、彼は眉間に皺を寄せて拒否すると、彼女の腰に手を回してきた。
下心ではなく、純粋に服越しに体の感触を確かめてくる彼の手に、は少し崩れた体制を直すと、落ち着かせるように手の甲を撫でる。

正直、普通に邪魔だと思ったが、目覚めた直後なのだから仕方ない。
2〜30年先もこの調子なら、対処を考えようと暢気に考えると、はセフィロスを腰に引っかけたまま暖炉の薪を組み始めた。


「ただ木を入れるだけでは駄目なのか?」
「ええ。燃え初めですから、燃えやすい木の皮や木屑を混ぜて、薪も空気の通り道を作るんです。ある程度火が回った後なら、あまり気にせず薪を入れて良いですよ。野営で焚き火を作ったことはありませんでしたか?」

「何度か講習を受けたが、忘れた。普段は携帯型のガスコンロを使っていた」
「そうでしたか」

「……火は、魔法で付けるんだな」
「ええ。着火剤の油の匂いが、あまり好きでは無いので」

「そういえば、自然のもの以外の匂いは、苦手だったな」
「よく覚えてますね。嫌いではないものもありますが、物によって鼻の奥が痛く感じてしまうので。その匂いに慣れてしまうと、魔物の匂いを感じにくくなりますし」


昔、匂いも大事な敵の情報だというの話を聞いて、ちょっと犬みたいだと思ったのを、セフィロスは思い出した。
同時に、一緒に聞いていたザックスが同じ感想を持ってそのまま口にしてしまい、慌てて謝ったもののに物言いたげな目で微笑まれていた事も。

「10分もすれば、部屋の中も暖かくなってきますが、それまで何か飲みますか?」
「……離れるな」

「離れませんから、睨まなくても大丈夫ですよ。では、一緒に紅茶をいれましょう」
「珈琲じゃないのか?」

「珈琲はありますが、最新の機械らしくて、私は操作方法がよく分からないんです。見ていただけますか?」
「わかった」


昔は最初に珈琲を勧めてきていたの言葉に首を傾げて問うと、彼女らしい回答が返ってくる。
それででなくても、機械が得意ではないだ。
数十年経っていれば家電製品が変わるのは当然で、彼女が操作が分からないのは当たり前だろう。

とはいえ、物は単に珈琲を入れるだけの機械。何となくでも操作はできるだろう。
そう楽観的に考えていたセフィロスは、キッチンにある最新式のホットドリンクメーカーを前に、が匙を投げた気持ちを理解することになった。


「ね?ワケがわからないでしょう?」
「…………」

「ホイップだとか、スチームだとか、何のことだかさっぱりです。昨日も頑張ってみたんですが、豆は入れているのにお湯しか出なくて……」
「……紅茶にしてくれ」

「ええ。そうしましょう」









お待たせしました。
セフィロスは暫く手間がかかる面倒な男です。

2021.12.11 Rika
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