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Illusion sand − 〜Epilogue 01〜






ツンとした薬臭さに、ザックスは重い瞼を上げた。
蛍光灯の眩しさに目がくらみ、けれど目を覆おうとした腕は重くて動かない。
疲労感で鈍る体に溜息すら出せず、光に慣れた目で辺りへ視線を彷徨わせると、白い天井と点滴の袋が見えた。

横から聞こえた布が摺れる音に、緩慢な動きで顔を向けると、昼間の任務で一緒だった同僚がベッドの上で寝息を立てていた。
その額に貼られたガーゼに、怪我をしたらしい事をぼんやり理解して、ザックスはまた視線を天井へ向ける。

徐々に覚醒しはじめた体で、一つ大きく息を吐くと、彼はゆっくりと上半身を起こした。
何処か呆けたままの頭を振り、視界に入った壁の時計へ目をやると、時刻は10時をまわっている。

正確な時間はわからないが、およそ4時間近く寝ていたという事か。
そう思って、やれやれと肩を落とすが、やけにだるい体に違和感を覚えた。

もしや、自分は幾日も眠っていたのだろうか。
傷を負ったはずの腹部に自然と手が行き、そっと触れてみるが、包帯が巻かれている感触は無い。
気を失う前の記憶を辿り、裂いた腹を治癒するの姿を薄ぼんやりと思い出したザックスは、既に傷が塞がっている腹をそっと撫でた。


彼女は、正気に戻ったのだろう。
きっとすぐにセフィロスと見舞いに来て、土下座する勢いで謝るのだろうな……と。
思い浮かべた光景にザックスは小さな笑みを浮かべ、しかし何故か、その光景に形容し難い感覚が襲ってくる。

心臓の裏側が擦れるような、じりじりとした感覚がする。
それが妙に心を焦らせ、落ち着かなくさせるのに、何処かで、それを受け入れた記憶も感じた。

自分でも理解できない心情に、ザックスは首をかしげ、視界にチラつく前髪を払う。
と、目尻の端にある軽く引きつった感触に、彼はそこを指でなぞった。

目の端から、こめかみへ一筋。
知らぬ間に出来ていた涙の跡が、更なる疑問を与え、彼はその跡を辿ったまま記憶を探り出した。

見えるのは、青緑の光と、同じ色の瞳をしたの姿。折れて飛んだ剣の先。腹部へ走った激痛と、血に染まっていく服。青い顔で回復魔法をかける、黒い瞳の。まるで天が与えた救いのように、駆けつけてくれたセフィロス。
そうだ、その時自分は泣いていた。彼がいるなら大丈夫だと、安心して涙を零した。

けれどその涙は、この涙の跡とは違うのだと、何故か答えを知っているような自分がいる。


「……何……で?」


呟きが唇から零れた瞬間、目の前が一気に滲んだ。
目を丸くする彼の視界で、シーツの上には次々と雫が落ちて染みを作っていく。
何故、何故と考える頭は、嗚咽を漏らし出した体について行けず、口を押さえた姿のまま濡れていくシーツを見つめていた。

混乱する頭とは対照に、ゆるやかに意識は覚醒し、視界の外にあった朧な記憶がはっきりと蘇ってくる。

思い出したのは、白と黒。
ベッドの傍に立っていたセフィロスのコートの黒と、目に痛いほど白く明るい病室だった。

疲れきった顔をしていた彼の瞳は、空恐ろしいほどに静かで、本当に生きているのだろうかと思ってしまったのを覚えている。
ともすれば、あやふやなまま消えてしまいそうな記憶は、薄ぼんやりと意識が覚醒した時のもの。
夢現の中、一人で来た彼に、「は?」と、上手く出ない声で聞いたはずだ。

そうだ、そして彼は答えたのだ。
生気の無い顔で、風にさえさらわれてしまいそうな姿で、呟くように、ただ一言。

『…………死んだ』

と。


その記憶の中の一言が、未だ半ば呆けていたザックスの意識をはっきりとさせる。
セフィロスが知らせた結末に、自分は今と同じ涙を流し、再び意識を失うように眠り、目覚めた。
4時間なんて短い時間ではない。少なくとも、丸一日自分は眠っていたのだ。そしてその間に、全て終わってしまっていた。

だから、二人が見舞いに来る姿の想像に、心が首を横に振っていたのだ。

理解した途端、強い虚無感が襲ってくる。
衝撃や痛みは、夢の中で受け止め終えてしまったのか、残り香のような悲しみが心の中に横たわるだけだった。
けれど、頬を伝う雫が止む気配は無く、彼女の記憶は過去の遺物になる事を拒否して脳裏に過ぎっては剥がれ落ちていく。


「ザックス、目が覚めたのか?」


見えない感情の流れに押されかけた彼の耳に、現実へ引き戻してくれる声が届く。
呆けた顔を上げてみれば、少し驚いた顔のアンジールが病室の入り口に立っていた。
その姿を見た瞬間、ザックスの肩から安堵したように力が抜け、目に浮かべていた涙を溢れさせる。
嗚咽を押さえていた手を下ろし、震えた息を吐き出した口で、自分が何をしたいのか分からないままザックスは声を零した。


「……アン…ジール……」
「……ああ」

「……が……死んだ」
「…………」


眠っていた時よりも青い顔で泣くザックスの姿に、アンジールは僅かに目を伏せ、静かに頷いて返す。
吐き出す言葉が途切れ、呆けた目で視線を落としたザックスは、自身を落ち着けるように肩で息をした。

いつの間にか目覚めていた隣の病人は、何も見ていない、聞いていないと言うように、ザックスに背を向けて壁を見つめている。
その姿にちらりと目をやったアンジールは、静かにザックスのベッドへ足を進め、椅子の上に腰を下ろした。


暫くの沈黙の後、幾分か落ち着きを取り戻したザックスは、何も無い壁をみつめたまま、静かに口を開く。


「セフィロスが……来てたんだ。……の事、教えてくれた」
「……そうか」

「………どれぐらい眠ってたんだ、俺……」
「今日で4日目だ。2日目に一度目を覚ましたが、セフィロスとの面会中に、また意識を失った。医者が言うには疲労によるものだそうだ。今のうちに、ゆっくり休んでおけ」

「……セフィロス……どうしてる?」
「…………」

「アンジール……」


セフィロスの事を聞いた途端、アンジールは渋い顔で口を閉ざしてしまった。
不安げなザックスの顔を見つめ、数秒考え込むと、彼は観念したように大きく溜息をつく。


「セフィロスは、謹慎を切り上げて一昨日から任務に出ている」
「…………」

「……暫く、そっとしておいてやれ」


助言というより、頼み事のように言って、アンジールはザックスの頭を少し手荒く、けれどいつもよりずっと優しく撫でる。
その手の暖かさに少し心を救われながら、しかし未だ沈んだ心地のまま、ザックスはそっと目を伏せ、遠い場所へ行ってしまった彼女に手向けの祈りを捧げた。





















「ジェネシスは見つかったか?」
「いや。相変わらず、全く連絡が無い」


ソルジャーの司令室。任務の報告に来たアンジールの問いに、ラザードは溜息をついて返す。
ジェネシスからの連絡が途絶えてから、かれこれ3週間。
その間、残る2人の1stソルジャーで任務をまわしていたものの、根を上げて軍部に丸投げした事案は少なくない。
頭が痛い話だ、と。疲れた顔で零したラザードは、次の任務の予定表をモニタに出し、壁に背を預けて立っていたセフィロスを呼ぶ。
伏せていた瞼をそっとあけ、呼ばれるままにアンジールの隣に来たセフィロスは、モニタに映された友の顔に、微かに眉を顰めて目を細めた。


「流石に、これ以上の不祥事は、避けなければならない。街が戦勝の雰囲気に包まれている今なら、1stが動いても、そう目立つことは無いだろう」
「…………」


ただ捜索に向かうだけなら、いつ出たところで変りはしない。
だが、情報が日の目に晒される事を避けたがるラザードの言葉に、セフィロスとアンジールはそれが意味する事を即座に理解した。
自然と表情を険しくしたアンジールは、目を伏せるに留まったセフィロスへ目をやると、無言で二人の反応を見ていたラザードへ視線を戻す。


「ラザード、それは……生死は問わない……という事か……」
「……場合によっては、そうなるだろう。セフィロス、明日、2ndソルジャー10名を連れ、ジェネシスの捜索及び身柄の拘束に向かってくれ。場所は……」
「断る」


はっきりと言ったかと思うと、セフィロスは驚く二人に背を向けて司令室を出て行こうとする。
アンジールより、幾分か動揺が少なかったセフィロスの様子に、任務を受ける覚悟が出来ているとばかり思っていたラザードは目を丸くして席を立った。


「セフィロス、それは……」
「命令拒否だ。やるなら他の奴に行かせろ」


にべも無く言い捨てると、セフィロスは司令室を出て行った。
それを見送るしか出来なかったラザードは、小さく溜息をついて腰を下ろし、モニターのスケジュール表を閉じる。


「拒否されたとなると、ジェネシスの事はまた保留だな」
「……あまりアイツを追い詰めるな」

「私には、そうしてほしがっているように見えたが……。謹慎を途中で切り上げ、任務をよこせと言ってきたのは、セフィロス自身だ」
「だからと言って、ジェネシスの事まで押し付けるな。今のセフィロスは、昔よりずっと危うい」

「私には、セフィロスがそれを望んでいるように見える」
「………………違う」

「では………?」
「止めてほしいんだろう。……俺達ではなく、彼女に…………」


溜息と共に呟くと、アンジールは何処を見るでもなく天井へと視線を彷徨わせる。
その顔を横目に見つめ、モニターへと視線を戻したラザードは、何を言うでも、何を思うでもなく、新たに舞い込んできた任務の依頼に目を通した。




そこにがいたなら……あるいはルーファウスがいたのなら、どちらも正解ではないと言って首を横に振っただろう。
彼はただ、立ち止まるまでの疾走を続けているに過ぎないのだ、と。
今は、誰かの手を求めるだけの強さえ持てずにいるのだと、暗幕に覆い隠した彼の姿を知らせてくれたのだろう。


けれど、既に彼女は何処にもいない。
否、風に乗って散った砂が、まだこの星の上にあるのなら、目にも留めない一粒の塵芥という姿で、はここにいるのかもしれない。
そう、もしかすると、その姿を変え、未だ彼の傍にいるとも考えられる。

詮無い事である。
仮にそうであったとして、それを知る者が何処にいるだろう。
流れ落ちた砂の先は、赤い空の下に吹いた風しか知りはしないというのに。



彼女が残したものは、数多とあった。
ミッドガルに留まった僅かな季節に出来た経歴は、既に無くなっている。
けれど、セフィロスが一捻りドア開ければ、その先にある自宅の中には彼女の痕跡ばかりだった。

靴を脱ぎ、二つあるスリッパの片方に履き替えて、寝室の向かい側のドアを開ければ、主の香りを残した部屋がある。
読みかけの本が広げられた机、知らない文字が綴られたノート、壁にかけられた上着、枕の下からはみ出した短剣。

後ろ手にドアを閉め、セフィロスは深く瞼を閉じる。
少し荒れた唇で、幾度か彼女の名をかたどり、静寂を返す部屋にゆっくりと瞼を上げて、手にあった正宗を壁に立てかけた。
日に日に自分の香りに変っていく部屋の空気を、惜しむように小さく吸って、セフィロスは狭いベッドの上に身を預ける。

留守の間に、がそうしていたように、セフィロスは彼女のベッドの上でゆっくりと目を閉じた。
知ったときは、可愛げがあると思った。だが、今になって、それが正解の半分でしかないという事に気付いた。
今の自分のように、何処かでその存在に縋り、その残滓に触れる事で、平静を保っていたのかもしれない。


いつか手放す日が来るのだろう。それが出来るようになったなら、きっと彼女はまた笑ってくれるのだろう。
それがどれだけ先になるのか、そんな日が来るのかは分かは分からなかった。
まだ、そうなりたくないと思っているからかもしれない。

静かな足取りでやってきた眠気に、セフィロスは抵抗も無く身を委ねる。
何処かで恐れ、同じだけ望んでいる彼女の夢を、今宵は見ることができるのか。

考えても、朧な意識はそれが叶わない事を知っている。
見るのは、ただ一瞬の暗闇だけで、それ以上の何も見る事は無い。

長い闇でなければ、それで良かった。
一夜の眠りのように、ほんの一瞬であったなら、彼は捕らえられることは無かったのだ。





程なく動き出した運命は、またたく間に彼らを飲み込んだ。


ジェネシスとの決別を経た。
漸く感触が戻りかけた足元が、また朧になっていく感覚を覚えた。


アンジールがいなくなった。
不安定な足場に、大きな亀裂が走ったのを感じた。


手を招く暗闇から目を背け、磨り減る心の悲鳴に耳を塞いで、セフィロスは堕ちたがる足で無理矢理に前へと進む。
けれど程なく、彼の足は崩れた地の底で口を空ける黒に飲まれた。


片田舎の屋敷に隠された資料が、英雄の出生にまつわる事実を教える。
呆気ないものだ。縋りつくように保っていた心は、見るも無残に砕けて落ちた。


誰か一人でも、傍に残っていてくれたのなら、自分はそこから這い出る事が出来ただろうか……と。
僅かな電灯だけが照らす室内で、彼はそんな事を思う。

積み上げた本に囲まれ、黴臭く湿った空気の中で、セフィロスは傍に在ってくれる人の一欠片を探す。
けれど、あるのは変り様のない空白だけで、立ち上がらせてくれる人は何処にもいない。


書棚の影に落ちた闇に、天井を覆う闇に、瞳に映る全ての闇に手を引かれながら、セフィロスの唇は彼女を探してその名を呟く。
胸の奥が軋んだ感触を覚えても、そこにあるはずの痛みや息苦しさを感じられなくなった自分に、彼は乾いた喉から息を吐き出して天井を仰いだ。

ふわりと、何処からか風を感じた。その中に、彼女の香りを感じた気がしたが、手を伸ばして探す事の無意味さは、嫌というほど思い知っている。
もしも、あの時、共に逝く事が出来ていたなら…と、幾度も考えて振り払っていた思いにさえ囚われた。


痛嘆と憎悪はゆっくりと混ざり合い、形を保てなくなった心の中で狂気の種へと変っていく。
程なく芽吹きの時を迎えるそれを、止める事も、見つめる事もせず、彼は脳裏を掠めていく過去の情景にただ目を奪われていた。

歪み過ぎたのだろうか。
縋る手を失いながら求めた記憶が、傍らにあった日のように彼女の香りを呼び起こす。
手にしていた本がズルリと滑り、静寂の中大きな音を立てて床に落ちるが、狂気の侵食が止まる気配はない。
残された正気は、時を待たず自ら握りつぶしてしまうのだろう。そんな事を漠然と考えながら、彼は自らが作り出した最後の夢に甘えた。


・・・・」


名を呼べば、また彼女の香りが蘇る。
縋りたい、帰りたいと心は叫び、何も無い空間に彼女を探して、彼女の朧な錯覚にしがみついた。


「どうしてこんな時、傍に居てくれない?」


偽りの希望を残してまで走り続ける求めた彼女の望みは、きっとこんな結果ではなかったはずだ。
ここにいたなら、『何をしているのか、そちらではない』と言って、手を引いてくれるだろうに、何故この手は空しか掴めないのか。


「お前が居たら・・・耐えられるか?」


友を失った痛みや、自身の出生の秘密を、受け止めきれずに崩れ落ちる前に、手を取って共に背負ってくれただろうか。
立ち上がれない姿に、肩を貸して支えてくれていただろうか。
抱えきれないなら捨て去れと、遠い場所へ連れて逃げてくれただろうか。
逃れられないなら進もうと、導となって守ってくれただろうか。
それを問いたがる自分に、当たり前だと笑うために、どこかで迎えに行くのを待っているのだろうか。


「何処にいるんだ・・・?」


いつか導いてくれた砂の音はもう聞こえない。
何度耳を澄ませても、何度名を呼んでも、新緑や流砂が見える事は無かった。


「何処へ行けばお前に会えるんだ・・・?」


狂気がくれた、小さな小さな贈り物。
朧に感じる彼女の香りは、頬に触れる掌の感触となって、悲鳴を上げたがる心を静める。
その手の小ささ、少し怖気づいた触れ方、擽るような力加減。
薄れてしまいそうになる記憶が鮮明すぎるほどに蘇り、麻痺していた胸の痛みまで呼び起こす。


『私は此処に居ます。セフィロス、貴方の傍に、貴方が望むならずっと共に』


耳に、脳に感じた声が、空白に嘘を刻む。
歪んだ己が生んだ幻聴の中でさえ、変る事の無い彼女らしい言葉が、遠い昔のもののように懐かしかった。


・・・・」


幻に、その姿を見る事は叶うだろうかと、彼は天井にある闇の中に彼女を探す。
友は見えるだろうか、時は戻るだろうか、そんな狂い方なら悪くないとさえ考えた。

けれど、闇は変らず、時は変らず、世界も何も変りはしない。
呆けた体には彼女の体の感触が蘇るが、それは彼女がいない現実を突きつけるだけだった。
平穏の中にあった日々は思い出に変り始め、中で傍にいてくれた人達がいる場所は、もう遠すぎる。



「俺は・・・・・・・・・・・・・一人か?」



そうだ。それが現実だ。
思い出に心を委ねても、幻影に縋っても、その傍には誰もいてくれない。
手を引いてくれる人も、肩を貸してくれる友もいなければ、自分一人で立ち上がるしかない。
けれど、失うものが多すぎた自分は、倒れ込んで、もう動けそうになかった。





誰一人いない場所にいながら、それでも一人で立ち上がり、歩み続けていた彼女の背中を思い出した。
傍にいられるならそれ以上は望まないという彼女の言葉の意味を、ここにきて初めて本当に理解出来た気がする。
けれど、立ち上がる事すら出来ずにいる自分には、彼女のようにはなれないとも思った。

今更の、この遅すぎた時に、彼女に何を返せるだろうかと考える。
その背を追うように、進む事だろうか。けれど、もう何処へ進めばよいのかもわからず、闇をはらう事すら出来そうに無い。
立ち止まり続ける事が叶わない事は知っていて、ならばもう、背負い続けていた光を捨てて暗い場所へと走り続ける以外、道は残っていなかった。

この手にあった僅かな全てを奪った者達も、それを許した者達も、いなくなってしまえば良い。
それらが、立ち止まる時間も、正す時間もありながらこの結末を迎えたのなら、この先にある未来は彼らが望んでいたも同然なのだから。
望みどおりに、終焉という名の慈悲を与えようではないか。


一度目を伏せ、再び瞼を上げると、重かった体が嘘のように軽く感じた。
床の上にある本の合間を縫い、書棚に立てかけた刀を手に取ると、掌から戦場の感覚が広がっていく。

逃避でも、過ちでも構いはしない。
彼女が残した、進み続けろという思いを免罪符に、何処までも走り続けよう。
止める声も、立ちはだかる壁も、その先にある安寧も、もう求めはしない。
それを与えてほしい人達は、もう一人もいない。


『セフィロス!!』


脳裏に届いたの声に、セフィロスはその足を止める。
耳の奥に一瞬感じた、ざらざらという砂の音が、彼女の声が音ではないと教えるが、彼の体は自然と振り向く。

亡霊か、幻影か。
今一度会えるなら、どちらでも構わないとさえ思った瞳には、電灯の明りの中で揺れる赤い焔の影があった。
その傍らで、きらきらと光を反射する粒子が見える。
風も無く舞う光は、さらさらという音を彼の耳に届け、灯りの下から影へと消えるとその象牙色を見せた。


『セフィロス・・・』


「・・・・・」


『行くな』



行きたくない時は行けと言い、行きたい時は行くなと言う。

本当に厄介な女だと、セフィロスの顔は自然と緩み、けれど上手く笑えず、今頃ぶりかえしてきた感情が目の奥を熱くする。それでも、涙は出てくれなかった。

赤い影は朧に揺れて、瞬きする間に空気に溶ける。
変らずそこで輝く砂に、彼は彼女の姿を重ね、形になれと望んでみるが、返ってくるのは砂の音ばかり。それ以上の何を望んでも、叶う気配は無かった。

それでも、きっとそこに彼女は在るのだろう。
決して触れる事の出来ない姿で、過ぎた日々を取り戻す事も出来ないまま、変える事の出来ない現実を見せながら、共にあると言った嘗ての誓いを律儀に守り続けるのかもしれない。


できるなら、全て夢であれと、彼はそっと目を伏せる。
明るい闇が広がる瞼の裏に、穏やかに過ぎた日々を描き、大樹の元で見た涙を映し、星空の下で見せた微笑を思い起こして、乾いた唇で彼女の名を呟いた。

そっと開いた瞼には、暗い電灯と仄かな砂の煌きが眩しく映る。
呟いた名に、答える声はもう届かない。
それが全てだと理解し、今更また突きつけられた現実に、何かを願う気力は消え失せていった。


何処で道を変えれば、『今』は変っていたのだろうか。
思い起こす日々は暖かく、穏やかで、今とは何もかもがまるで違う。


「凡庸な生活・・・」


「凡庸な結婚・・・凡庸な幸せ・・・」


「子を成して・・・孫が出来て・・凡庸な老後を向え・・・」


「いつか・・・同じ日、同じ時、同じ場所で死に・・・」



「同じ墓、同じ棺桶に入れられて・・・・・同じ場所で眠る」



悪くない、叶えてみたいと思わせた、彼女の語る未来の姿を、一つ一つ思い出してみる。
もしも、全てが変えられたなら……。
全てと言わず、友を失っても、自身の出生について知っても、もしここにがいたなら、いつか手にいれる事が出来たのだろうか。



考えてみても、もう全ては過ぎた事だった。



「お前と・・・・・・・叶えてみたかった」



叶わない願いは、心の奥底に仕舞ってしまおう。
残された自分は、ただ進み続けるしか出来ない。
立ち上がれない自分が唯一走る事が出来る、黒に、闇に、狂気に塗れた道を、狂った道化のように、その果てを探して、何処までも走り続けよう。



嘗て彼女が、閉ざされた世界の果てを探し、走り続けたように。












Illusion sand − 〜Epilogue 01〜 End




2012.02.27 Rika
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