次話 ・ 前話 ・ 小説目次 | ||
Illusion sand − 112 せめぎあう大気が悲鳴を上げ、幾億の涙を零す。 それは吹き上げる炎に飲まれ、あるいは氷の刃となって地に降り注ぎ、再び空へと帰された。 もはや耳など不要の様となった景色の中、セフィロスはの胸に出来た火傷に気休めの回復魔法をかける。 汗を浮かべていた彼女の表情からは、未だ苦痛の色がとれないが、その口元は淡く笑みをかたどり、瞳は穏やかに彼の姿を映していた。 彼の手に触れた彼女は、小さく苦笑いを浮かべ、その唇を動かす。 聞き取れない声が、治癒は不要だと言っている気がしたが、セフィロスはそれを無視して彼女へ魔力を注ぎ続けた。 大人しくしろ、と、聞こえない事を承知で告げると、彼女は仕方が無いといいたげな表情で笑う。 けれど次の瞬間、彼女の顔が一瞬歪み、次いでその目が忌々しげに投げ出した左腕へ向かった。 はめられた籠手には、青い炎をほんのりと浮かばせる細かな文様が浮き上がり、指先は不規に痙攣を起こしている。 見つめあい、がまた何かを呟いて笑った。 笑いながら、彼女はまた何かを言い続けるが、長く紡がれるその言葉を聞き取れない彼は、口を塞ぐ代わりに彼女の体を引き寄せる。 肌に伝わる鼓動に、はセフィロスの胸元へ唇を寄せた。 触れる手の指を絡める事でそれに答えた彼は、いつの間にか姿を現していたシヴァの背中にちらりと視線を向けると、それを見つめるの額に頬を寄せた。 炎を透かす青銀の髪が揺れる。その度に、彼女の周囲に漂う水分は凍り、緩やかな風の中で無数の輝きを放った。 長く広がるドレスの裾は炎を隔てる障壁へと続いている。近づく炎を飲み込む壁は、徐々にその範囲を広げ、その外に2重3重と防護障壁を作っていく。 氷と冷気の向こうでは、全てが炎に染まっているというのに、壁の内側では雪氷が舞っていた。 ふう、と……紅を引いた唇から、細い息を吐き出して、シヴァは妖美な面差しに嗤笑を浮かべる。 その視線の先では、イフリートが既に片腕と首を現していたが、炎の召喚陣が地面から伝った氷と打ち合っていた。 暴れる獣の手は、爪の先から炎を吹き出し、現出を妨げる氷を食い散らかしている。 扇で口元を隠しながら目を眇めたシヴァは、冷気の障壁に指先で触れると、炎の召喚陣ごとイフリートを氷の鳥篭に閉じ込めた。 炎は篭に絡みつくが、その氷を溶かす事は出来ず、格子の隙間を埋めていく薄氷を打ち破る事も出来ない。 けれど、その中にいるイフリートの現出は止まらず、辺りを包む熱が冷める気配も無かった。 『やはり獣は好かぬ……』 女王の呟きに、辺りを舞う雪がキンと共鳴する。 瞬間、耳を覆っていた音が止み、代わりにさらさらと歌う氷雪の声が辺りを包んだ。 その音色に、シヴァは満足げに目を細めると、ゆるりと振り返って達を見る。 セフィロスに身を預けながら、少し困ったような顔で笑うに、シヴァは同じ笑みを返して彼女の傍に肩膝をついた。 『女の体に傷をつけるとは……やはり獣風情よのう……』 の胸元に出来た火傷に、シヴァは眉を顰めると、彼女の胸に手を当てる。 白い掌から伝わる心地よい冷気は、火傷を消す事は出来なかったが、そこにあった熱さと痛みを消し去った。 僅かばかり、掌から冷たい魔力が流れてくるのを感じたが、それはの体に馴染む前に、左手の先に奪い取られてしまう。 ほんの一瞬、左手の異物は水を得たかのように反応したが、すぐにオーディンが刻んだ封印にシヴァの魔力を吸い取られ、動きを止めた。 その様子に、シヴァは目を細め、へと視線を向ける。 『……既に腹は決めておる……か……』 「……悪くなかったと……思ってる」 『ならば良い。……"これ"がそなたの至上なのであろう?』 「…………」 穏やかに笑む彼女に、シヴァは表情を和らげながら、セフィロスを視線で示して問う。 いつもなら首を傾げるか、神妙に頷いていただろうは、少し恥ずかしそうに、少し残念そうに笑って返すだけだった。 古くから知る姿とは違う反応を見せたに、シヴァは僅かに驚き、嬉しそうに微笑むが、その顔はすぐに悲しげなものに変った。 『惜しい事……。もっとそなたを眺めていられたなら…………』 「……期待に沿えず、すまない……」 『……かまわぬ。……我は、そなたを好いておったぞ。人の身を我が気に入ったのは、そなたと、他の小童達ぐらいであった。光栄に思うが良い』 「……そうか……」 相も変らず尊大な物言いをするシヴァに、は苦笑いを返す。 小さく笑い返したシヴァは、一瞬だけセフィロスに目をやるが、彼が視線を返す前にへ視線を戻した。 『さて……あまり悠長にはしておれぬな。野暮な真似はそろそろ終わりにしよう』 土がついたの頬を軽く撫でると、シヴァは億劫そうに立ち上がる。 途端に冷たいものに戻った彼女の瞳は、氷の檻を食い破り、障壁にぶつかる炎へと向けられた。 目を凝らせば、赤く揺れる光の中に上半身を現したイフリートの姿が見える。それは先ほどより大きな声で吼え、辺りを染める炎の音と混じるようだった。 『行け。我が道を作ろう。その先にオーディンがおる故、後はあ奴の手を借りると良い』 シヴァの扇子が音を立てて開くと同時に、それが指し示す先の障壁が割れ、牙を剥いた炎が凍りつく。 次いで作られた新たな障壁が凍れる炎を切り落とし、赤く爆ぜていた木々を霜で覆った。 雪の花弁を舞わせながら、ゆるゆると手先で扇を遊ばせて、シヴァは二人に背を向ける。 『あ奴は我に任せるが良い』 「恩にきる」 を抱えて立ち上がったセフィロスは、再びイフリートを押さえ始めたシヴァの背に言うと、彼女が作った道を走る。 遠ざかる気配に、シヴァは僅かに視線を向けるが、二人の後を追うように伸びた炎に眉を顰てイフリートへと視線を戻した。 『威勢の良い事だ。そしてよく吼える』 口の端を吊り上げると同時に、張り巡らせていた障壁が音を立てて砕け散る。 煽る熱風は冷気と混じり、炎と雪が幾つもの風の渦となって暴れながら、黒く焼け焦げた木々を砕いた。 視界を覆う炎の色を眺めながら、指先から零す冷気で白の世界を広げると、片足と尾の先を残して現れた獣が大きく一声吼え上げる。 地を、空を震わせる咆哮に、シヴァは心底煩わしそうな顔になるも、すぐに無表情に戻り、炎を撒き散らせて暴れる獣を見る。 それは、広がる赤より更に色濃く、血を思わせる色をした瞳で、涼しげに佇む女王を見つめていた。 『不様よのう……理に反して表れようなどとすれば、目も当てられぬ姿となる事など、知っておろう』 『この期に及んで、見てくれなどに構うものか!シヴァ……何故邪魔をする!?』 『我は求めに応じたまで。どこぞの阿呆のように、勝手に出てくるほど無作法ではないのでな』 『お前達が腑抜けただけだろう!それよりも、何故を行かせた!』 『あれが望んだ事。我らが口出しする事ではあるまい。そなたの行いを、は望んでおらぬ。行かせてやるのが、真の情と言うもの……』 『戯言だ!が望まぬとも、まだ手は残っておろう!何故黙っていた!?何故生き延びる術を与えぬ!?』 『知ったところで、あれの心は変らぬ。まぁ……犬畜生に、女の心の機微を理解するなど、無理な話であろうがのう』 『貴様……!』 『異論があると?事実、そなたはの望みなど考えてはおらぬではないか。今ここにいるのも、のためと口先で言いながら、結局は己が為……』 『死しては全て遅かろう!命さえあるならば、新たな道も切り開ける!』 地を爪で掻き、足掻くように陣から這い出るイフリートは、その身から溢れる炎を抑える事もせずに叫ぶ。 放っておけば何処までも広がる炎を氷の風で抑えながら、シヴァは地に這い蹲る獣を冷めた目で見下ろした。 『惚れた男を殺し、人である事を捨てる代わりに……か?イフリートよ、それはお前、ますますの事をわかっておらぬ証拠ぞ。あれは、我らと同じにはならぬ。理の外にある存在になど、なりたがりはしない』 『ならばシヴァよ、我らに再びを失えと申すか!?そのような事、我は許さぬ!邪魔をするな!』 『あれは人間である事に誇りを持っておる。我らにとっては取るに足らぬ存在であろうと、あれにとっては大切なものなのだ。それを否定するというならば、自身を否定するも同じ』 『あれは賢い。いずれ、過去と割り切る事も出来よう!』 冷静になる気など更々無く、ただ感情のままに叫ぶイフリートに、シヴァは顔を顰めて目を伏せる。 何気なく目をやった掌に、既に薄く名残さえ残さなくなったの魔力を思い出し、彼女は深い溜息をついた。 いつの間にか握り締めていた手からは、割れた扇の破片が零れ落ち、炎の明りに照らされながら溶けていく。 その様を眺め、顔を上げたシヴァは、涙の代わりに炎を眼から零す獣を哀れんだ。 『お前は……年を、くいすぎたようだ、イフリート。そして、愚かになった』 『何を!?』 『は人である事を選んだ。人として生まれ、人として死する事を選んだのだ。人ならざる身である事など、貴様ごとき獣畜生より自身がよく理解しておるわ!』 『ならば尚の事、我らと共にあるべきだ!理の外に在れば、この星とて手出しは出来ぬ!あの小僧さえ始末すれば、星がを手放さぬ理由は無くなる!それを何故止める!?』 『斯様なことをあれが許すと思うてか!?情があると言うのなら、あれが望むよう、好いた男の傍で終わらせてやるのが、せめてもの情けではないか!』 『情があるからこそ!見殺しには出来ぬのだ!!』 『それは貴様の我侭でしかなかろう!愚かな……まこと愚かな犬畜生よ!貴様如き知性の欠片も持たぬ獣に言葉をかけた我が愚かであったわ!言って分からぬのであれば、鞭を持って躾けてくれる!!』 シヴァの叫びと共に、巨大な氷柱が現れ、達が向かった方向を塞ぐ。 足跡を辿ろうとしていた炎は阻まれ、逃れながら進もうとする炎の先までも、氷柱から生えた氷の茨に絡め取られた。 ぶつかり合った氷の葉と炎の花弁が辺りに舞う。 はらり、はらりと風に乗って降り注ぐそれは、焼け焦げた木々の枝先に触れると、それぞれの華を咲かせた。 けれどそれは、喉笛を噛み付き合い始めた獣達が生む新たな炎と冷気によって、花々は大輪になる前に散っていく。 熱と冷気が入り混じる暴風は雷を生み、天と地を繋げるかのように青白い火花を散らした。 森を焼き、大地を凍らせ、飛散した炎と氷が遠い平地に明りを灯す。 その光景を、雷帝は天上を塞ぐ暗雲の下から見下ろしていた。 二つの獣は、その牙を収める気配も、押さえようとする気配も無い。 雲の中に押さえ込まれた雷が、ゴロゴロと喉を鳴らし、噛み付く大地を探す気配に、ラムウはその雷を消し去った。 けれど、地上から吹き上げてくる歪な風は、すぐさま雲の中に溶け込み、新たな雷鳴を生みだした。 再び地に狙いを定めた雷を消し去りながら、ラムウは銀の道を走る影に目をやる。 森の外へまっすぐに伸びる小道を走るそれは、まだイフリートの炎から逃げきるには及ばず、時折小道の外で炎と氷がぶつかり合っている。 けれど、もはや手を加えるまでもない。 それが彼女が選ぶ道ならば、それで良いのだろうと、ラムウは微かに見えるその姿に目元を緩めた。 一際強く吹いた風に目を伏せ、彼は彼方に見える星の空へと目をやる。 人里離れた地とはいえ、赤く色を変えた空と引っ切り無しに轟く轟音に、人間達が気付かないはずがない。 星とは違う灯りは、鳥のように羽ばたくでもなく空を飛びながら、こちらへ向かってきた。 地平へと視線を下ろせば、それより更に近い場所に、二つの目を光らせた鉄の塊がやってくる。 さて、このさきの運命はいかなるものか。 元より、手放すと言うほどの干渉をしていない事を知っている雷帝は、これまでと何一つ変らない傍観者という立場から、その行く末を見下ろしていた。 張り付く霜に白く色を変えた森の中、セフィロスはひたすらに地を蹴り、炎が届かない世界を目指す。 伸ばされる炎の手は遠く、響く轟音は遥か背中に遠ざかるが、赤く染まる空はいまだ彼らの上にあった。 木々の上を滑る風が、凍りついた木の葉を鈴のように鳴らし、その欠片を浚っていく。 薄氷を纏う草は、踏みしめると同時に砕けて小さく舞った。 声を潜める雷鳴に気を引かれる事も無く、その足はただ速く、遠くへと駆け続ける。 まっすぐに見つめる小道の先に、青く揺らめく黒馬の鬣を探すが、それはまだ一片の影さえ見なかった。 腕の中にいるへちらりと目をやれば、胸に額を預ける彼女と視線が視線と交わる。 彼女が浮かべる笑みに不安を覚え、焦る胸に伝わる体温に僅かばかりの安堵を覚えて、彼は彼女を抱く腕に力を入れなおした。 冷えた空気に、吐く息は白く、指先の感覚は薄れるが、掌にある感触が薄れる事はない。 それに心を奮い立たされるように、彼はただ前だけを見つめなおし、ともすれば身を支配する恐れから逃れた。 やがて視界の白は薄れ、草木の色が見え隠れし始めるが、それに代わるように、天上からはらはらと雪が舞いだす。 固まっていた空気は温み、葉先は露を滴らせるが、秋風を春風と錯覚したに過ぎなかった。 遠く、木々の先に青い炎が見える。 ああ、ようやく……と安堵するも、その後はどうするかと考えた先には、何の手もありはしなかった。 ならばこのまま、何処までも逃げてみようか。 否、それ以外に道など無いだろう。 ふと覚えた音を聞き、遠い空へと目をやれば、紺碧の中に星とは違う光がある。 夜鳥ではなく、まして助けなどでもあるはずがない。新たな追っては、思っていたより早くたどり着いてしまったらしい。 地上を来る者の姿は見えないが、この木々の小海を抜ければ否応無しに目にする事になるだろう。 どちらへ向かおうか、何処へ逃げようか。 どこまで走り続ければ、何者にも追われる事のない場所へ辿り付けるだろうかと考えるが、それは不可能なのだとも理解している。 迷いに、セフィロスの足は速度を落とし、視線はへと向けられる。 瞳に映った彼女の微笑みに、どんな意味があるのか、彼には読み取る事が出来なかった。 彼女の頬に張り付いた髪を、払う自由すら今のセフィロスは持っていない。 もっと触れておくべきだったと、今更の後悔をするものの、ただ穏やかに過ぎていた日々に思い出すのは、春の陽を分け与えるような心地よさだった。 それをまた描きたいのなら、ただ只管に未来を信じ、これを超えて行けばいい。 共に歩んだ道は、まだ次の春すら迎えていない。これで終わりにするには早すぎる。 朧に、しかし確かに見える青毛の影に、セフィロスは抱きかかえる彼女の体を引き寄せる。 小さく呻いて顔を上げたの額に、触れるだけの口付けを落とし、彼は上空を過ぎ去っていく神羅軍のヘリを見上げた。 彼女を連れて、共に行く事は出来ないだろうと思った。 けれど、自分だけならば、何とかここを抜けることは出来る。 僅かばかり離れるだけだというのに、たまらなく不安になる心に苦笑いを作りながら、彼はスレイプニルの横に佇む鎧に目を向けた。 イフリートの炎に巻き込まれたのか、外套の裾は焼け焦げ、白銀の鎧は煤に汚れている。 けれど今は、その汚れた姿さえ、何処か心強く思えた。 「、お前はオーディンと森を抜けろ。俺は神羅の奴らを引き付ける」 「……その必要は……」 「ある。勝手に諦めるな。生き延びる事を考えろ」 「……そうですね……。そうであれば………………」 「後で、必ず迎えに行く」 走る速度を緩めながら、セフィロスは立ち止まる事を望むの声を否定する。 半ば睨むように、彼女の瞳を見つめるが、彼女が返すのは何処か呆けたような、薄い笑みだけだった。 それがまた、不安と苛立ちを掻き立てて、彼はその場で足を止める。 「!」 『しっかりしろ』と、続けようとした声が、彼女の胸元から聞こえた音に遮られる。 見下ろせば、胸の下に置かれていた彼女の左腕から、淡く灯っていた文様が薄れ透明に変わった。 形を成さなくなった左腕の成れの果てが、重力に従ってさらさらと袖口へ流れる。 それを受け止めていた銀の籠手は、砂に押されるまま彼女の上を滑り、ガシャリという音を立てて草の上に落ちた。 ゆるやかに降りていく雪の中、象牙色の粒は何処からか吹く風にさらわれていく。それは森に、空に、空気に溶けて、何処とも知れない彼方へと消えていった。 時を止めて見下ろすセフィロスの視界の中、落ち行く砂を呆けたように眺めていた彼女が顔を上げる。 消えた腕に、セフィロスは言葉を見失いながらそれを確かめようとするが、は残る腕で彼の体を引き寄せ、それを拒んだ。 布越しに伝わる彼の鼓動は早く、汗が浮かんでいる肌は暖かい。 無意識にの体を抱きなおした彼の腕に、先ほどまでの力強さは無く、その瞳はただ呆然と彼女の姿を映していた。 予想以上に持った方だと思う体も、セフィロスにとっては僅かしか持たないものなのだろう。 砂になってしまうなんて、骨すら残ってくれないなんて、考えてもみなかったはずだ。 いや、それは自分も同じだ。終わりが、こんな形だなんて、思ってもみなかった。 きっと、動かない体だけが残されるのだと……それだけは残ってくれるのだとばかり思っていた。 そんな事を考えながら、は残された一握りにも満たない時間を惜しむように、彼の暖かさに頬を寄せた。 僅かしか残っていない魔力が、雫を落とすように減っていくと同時に、体の痛みと彼の感触が薄れていく。 風の音を聞くのとは別の場所で砂の音を聞くが、それは遠く遥か隔てた場所にあるだけで、手が届く場所までは届きそうに無かった。 それで良いと思う。帰る場所は、もはやあの遠い場所ではない。 あの腕の成れの果てのように、残る体も程なく砂へと変り、この世界の塵芥になるのだろう。いつか、彼が見上げた空を過ぎる、目にも入らない塵の一つに。 それもまた、悪くないと思った。 ひらり、ひらりと、視界の端に白が舞う。 薄く開けた目で眺める先には、赤い空と夜闇に映える白い雪が、花弁のように舞っていた。 眺める間に風に浚われていった一片を見送ると、は一度目を伏せ、彼の顔を見る。 当惑と驚愕が入り混じる瞳で、呆けたように見つめ返す彼に、彼女は一度目を伏せ、苦笑いを浮かべた。 本当に、彼は諦める事を許してくれない。 再び見上げた彼の目は、上辺だけの平静さを取り戻し始めるも、その奥に押さえられた感情の波は触れる事をためらうほどに危うかった。 今、再びこの口が告げたなら、きっと彼は立ち止まってくれるだろう。 けれど、今ここで立ち止まって終えてしまえば、きっと彼はこの先に進めなくなってしまう気がした。 だから彼女は、諦めを口にしたがる唇を引き結び、それとは間逆の言葉を吐くために、視線を道の先へ移す。 「そう……そうですね。ここで立ち止まってはならない」 「…………」 恐れる彼を残してゆく事を知りながら、それでも立ち止まる事を許さない自分は、さぞかし酷い人間なのだろう。 けれど、この足で歩く事が出来なくとも、彼が連れて行ってくれるのなら、何処までも共に行こうと思った。 たとえそれが僅かばかりの距離であっても、それがいつか追い風となって、彼の背を押してくれる事を願った。 「行きましょう。……行けるところまで……」 見つめる瞳と言葉に促され、ゆっくりと歩き出したセフィロスの目は、思考と感情がかみ合わずに何処か知らない場所を見ているようだった。 けれど、今はそれで良いと思った。 彼が歩む先が、何処へ続いているかはわからない。 それでも、今ただ言われるままにであったとしても、進み続けてくれるのなら、その先に続く道までも捨てる事は無いだろう、と。その事だけに、安堵した。 同時に、僅かな先の未来を思い、の胸の内には不安が広がっていく。 どうすれば、彼は立ち止まらずにいられるだろうか。どうすれば、その後も歩き続けられるだろうかと考えて、思いついた非情な手立てに知らず微苦笑が浮かぶ。 本当に自分は彼が大切なのだろうかと内心自嘲するが、彼がそれを越えてくれる事を信じる以外、今出来る事も無さそうで、それ以上出来る事も無さそうで、ともすれば憂いに変わる顔を、彼女は無理矢理笑みへと変えた。 黒馬が嘶く。 物言わず見下ろすオーディンに、はちらりと視線をやり、彼の前へ着いて足を止めたセフィロスを見上げた。 抱きかかえる彼の手には力がこもり、それは痛いほどに彼女の身を捕らえているが、既に体はそれを感じる感覚すら無くなっていた。 触れる感触も、伝わる温もりも、既に記憶が作る錯覚でしかなく、遠い日に思いを馳せて蘇る幻にすぎない。 だとしても、それは、今の彼女の心に過ぎるほどの幸福を与えた。 「セフィロス」 「………何…だ?」 「貴方が仰るように、私は、オーディンと共に森を出ます」 「……だが……」 「貴方は、神羅の兵を……。後で合流しましょう」 「…………」 「見つけてくださるでしょう?貴方なら、私が何処にいたとしても…………」 「…………」 いるかどうかも分からない、きっと存在しない人間を探せ、と。まやかしの希望を押し付けるに、セフィロスは苦しげに眉を寄せる。 けれど、には分かっていた。彼に強いたこの選択は、きっと間違っている。 本当に正しいのは、今全てを受け入れ、立ち上がることを求める事なのだろう。 でも、きっと彼は耐えられない。 もしもそれを求めたなら、揺らいだ瞳は瞬く間に彼の心を飲み込み、大きな歪の切欠になるだろう。 何も残らない結果を目の当たりにすれば、彼は、運命などという朧なのを、終わりを早めた星を、そして世界を、憎むかもしれない。 それとも、全ては泡沫の夢幻だったと、誰の手も届かない遠い場所へ逃げてしまうだろうか。 どちらを選んでも、結局彼が行き着く先は、自分自身への憎悪という、何処か安易で、けれど何処までも深く暗い場所だろう。 そこへ着いた時には、きっと彼は一人では歩けない。 遠い日の夢に見た彼を思い出す。 薄暗い部屋で、積み上げた本に囲まれ、泣く事も出来なくなっていた彼は、酷く寒い場所へと向かってしまった。 だから、希望が必要だった。 暗闇へ向かおうとする彼の心を少しでも引き止める糸を、踏み出してしまった足を僅かでも逸らすための小石を、底の無い淵に沈む目を照らす小さな火影を。 それ以外に、彼女が残せるものなど何もなかった。 「、お前は……」 「…………大丈夫。オーディンの魔力を分けてもらいます。だから……大丈夫」 「…………」 さらり、さらりと、何処からか落ちた砂が風に舞っていくのも気付かぬまま、彼女は笑みと嘘を重ねる。 浅く息を吐き、瞼を伏せた彼は、静かにの体を地面に下ろすと、彼女の額に頬を寄せた。 「…………必ず探し出す」 「……ええ。お待ちしております」 砂に変わったの片足に気付かないふりをして、セフィロスは名残惜しげに彼女から手を離す。 吹き抜けた一筋の風が、凍れる木の葉を砕き、舞い上がった砂を天上の星に隠しながら流れていった。 音を立てながら揺れるヘリの照明が、木々に隠された二人の上をいくつも通り過ぎていく。 茂みの合間から見える光に目をやれば、未だ遠い森の入り口から、幾人もの声が届いた。 今一度、セフィロスは振り返り、穏やかな目を返すを見つめる。 体は、再び膝をつき、彼女の手を取りたいと言っていた。けれど同じく、果たせないだろう約束の為に走れとも言い、そして感情が『果たせないはずはない』と強く言う。 掻き毟りたくなるほどの胸の痛みを覚えながら、しかしその感覚も何処か遠く、生まれては消える言葉と思考が、意識を朦朧とさせるようだった。 どうしたいのか、どうすべきなのかと、頭はしきりに答えを探し、けれど唯一揺らがずにあるのは、を信じろという自分自身の声だった。 「行ってください」 が生き延びると言うのなら、例えそれが偽りであっても、信じ、走るだけだ。逃避なのか、前進なのか、判断する余裕などない。 いつか…………いつも、が見せていた穏やかな笑みを、今瞳に映る彼女の笑みに重ね、彼はゆっくりと頷く。 の残った右腕の、その指先から落ちる砂を視界の隅に捉えながら、セフィロスは彼女に背を向けて走り出した。 正宗を握る手の力を緩める事も出来ず、凍る草花を蹴る足も制御出来ず、ともすればどんな声を漏らすか知れない唇を引き結びながら、ただ前へ前へと体は走る。 突然滲んだ視界は、記憶の奥底にいた幼い頃と今を重ね、引きずられた感情が助けを求めるように胸の内で彼女の名を叫びながら、引き返せと泣き喚いた。 心の臓を突き刺すような痛みに胸を押さえ、乱れた息を吐き出す口からは噛みあわない歯ががちがちと音を出している。 動き続ける足は何故か軽く、けれど進めば進むほど頭が鈍く痛み出し、限界を叫ぶ心を押さえつける度に眩暈を覚えた。 ざわめきが近づく。 森の出口に置かれたトラックの光の中、それを遮る人影が、動きを止めて名を呼んでくる。 銃を下ろした影の数を数える事も無く、ただ彼女が行く道を開くためだけに、彼の体は刃を構えた。 その背をそっと押すように、砂粒を乗せた風が彼の横を吹き抜けていった。 漂う冷気に亀裂が入り、天上が一際の赤に染まった刹那、遠くから悲鳴のような獣の咆哮が響く。 瞬きする間に色を失っていく砂は、仄かな光の粒へと変り、彼の体をすり抜けて空へ消える。 途端重くなった体に足は止まり、瞳は、彼方へと去っていく砂を呆然と眺めた。 獣の悲鳴が、静寂を取り戻しかけていた森を震わせる。 ほんの数秒前まで『立ち止まれ』と、『引き返せ』と叫んでいた感情は重く口を閉ざし、今頃踵を返そうとした体に無意味だと言い放った。 うすぼんやりとした喪失感を覚えるも、それが形となるには時が足りず、目を背けたがる自分が走れ走れと体を急かす。 まるで砂漠の上にいるような、数多の砂を抱いた風が森を駆ける。 その意味に、答えを出しかけた思考は、形を失うほどに混ざりあう感情の波に口を塞がれ、はけ口を見つけられないまま彼の脳内を掻き乱した。 眩暈がする。 吐き気がする。 目の前が白く濁る。 仄かに赤く染まる景色の中、森を覆っていた獣の悲鳴は薄れ始めるが、それとは別の何かが上げる叫びが煩く響く。 押さえる手が足りなくなった感情は、思考を広げたがる理性を押さえ込み、酷い頭痛となって彼に膝をつかせた。 煩く鳴る心臓を押さえ、くらりと揺れた視界に息を吸い込もうとするが、乾いた口は辺りを覆う声を張り上げるだけだった。 酸素を求めた肺が無理矢理に息を吸い込み、喉と胸が痛みを訴えるが、息を止めるより先に目の前が白く変わる。 途切れた叫びの向こうで、足音とざわめきが近づくのを聞きながら、それを瞳に写すより早く彼の意識は黒く落ちた。 頬にかかる名残の雨粒も拭わぬまま、ルーファウスは山々の向こうに見える赤い空に目を細める。 開かれた窓から入り込んだ風が、シンと静まる寝室の空気と彼の体を冷やしていくが、その目は逸らされる事無く燃える雲を見つめていた。 掌の上で煩く鳴り響いていた銀時計の音は、やがて緩やかに静まり、一度震えたかと思うとそのまま時を止めてしまった。 それが知らせる意味を予感し、僅かにさえ動かなくなった秒針に確信をして、ルーファウスは再び遠い空へと目をやる。 彼女は、何を残せただろうか。 彼女の何が残るだろうか。 握り締めて離さなかった誇りとやらは、最後まで手放さずにいられただろうか。 緩く背を包む感傷をそのままに、ルーファウスは程なく訪れるだろう波乱を予感する。 その渦中に、銀の髪を靡かせる背中を見た気がした。 その足の行き着く先が、暖かな希望か、深遠の闇か、それは誰にもわからない。 唯一知りえる人は、導を作れる人は、何処にもい人になった。 傷として抱え行くか、糧として背負い行くか、セフィロスが出す結果で全ては変って行くのだろう。 「…………望み薄だな……」 苦笑と共に呟いて、ルーファウスは濡れた窓辺に腰を下ろす。 紅蓮の地に似た雲の上で、空は藍に、月は銀に、風は静かに天上をそよぐ。 血を思わせるほど染まっていた空が、やがて夜闇に溶けていく様を、彼は何も言わず見届けていた。 やがて世界は動き出す 古より続く運命の上に 悲劇の英雄の足跡の上に 星の命の導きの上に 残される事無い名を胸に 誰も知らぬ名を胸に 砂に消えた名を胸に 彼らの運命は動き始める Illusion sand End | ||
2012.02.23 Rika | ||
次話 ・ 前話 ・ 小説目次 |