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Illusion sand − 111





徐々に遠ざかる大通りのざわめきを背に、セフィロスは細く入り組んだ住宅街の裏道を行く。
進むごとに家々はスラム街を思わせるものに変わるが、それを阻むかのように真新しい建物がぽつりぽつりと並んでいた。
景色の合間に見える魔晄炉が近づくに従って、町の外から入り込む風が強くなる。
プレートの淵に沿って経つ神羅の関連施設には、警備用の照明ライトがいくつもつけられ、鉄壁の向こう側を照らしていた。

近くに見えた廃屋の影に入り込み、セフィロスは僅かに乱れた息を整える。
道の先にある外との境界線には、警備に立つ兵士が通りかかった野良猫にさえ目を光らせていた。

さて、あの場所をどうやって突破するか。
兵を昏倒させるだけならば簡単だが、監視カメラまで破壊するとなると事が大きくなりすぎる。駅まで戻り、スラム街から外へ抜け出るという手もあるが、プレートの上がこの様子なら下は更に厳重に警備されているはずだ。戦争中の街中は、そこかしこに兵がうろついている。
他の者のように変装して通り抜けるには、セフィロスの風貌は目立ちすぎた。

やはり隙を縫って通り抜けるしかないと考え、セフィロスは兵が配置されている場所を確認する。
ライトの動きと兵の視線、両方のタイミングを計りながら、セフィロスは身を構えた。
だが、僅かな隙を見つけて飛び出そうとした瞬間、彼は遥か上空に浮かぶ青い炎を見つけ、その足を踏み留めた。
目を凝らさなければ見えないほどの小さな揺らめきは、警戒する彼の方へ徐々に近づき、それに従って闇の中に薄く透けたその姿を見せる。

漆黒の躯体に、朧な炎の鬣を持ち、蹄の下に浮かぶ青い炎を蹴る姿。
地上に生きる同種より遥かに大きな体を持ちながら、音も無く空を駆るスレイプニルは、見張りの兵達に見つかる事無くゆっくりとセフィロスの前に下りた。



「迎えに来たのか……?」


問うと、黒馬は小さく鼻を鳴らし、急かすようにセフィロスへ背を近づける。
普通の人間が乗るには無理がある大きさの黒馬に、彼は僅かな不安を覚えつつ、その背に跨る。
馬も馬具もオーディンの大きさに合わせているせいで、鞍の上に腰を下ろすと鐙まで足が届かないが、セフィロスはやむをえないと考えて手綱を握った。

彼の準備が出来ると、スレイプニルが小さく鳴き、その体が滑るように宙へ駆け出す。
慌てて背筋を伸ばし、尻を浮かせたセフィロスだったが、スレイプニルの背は乗馬特有の揺れがなく、しかし代わりに馬とは思えない加速を始めた。
咄嗟に腰を下ろし、身を屈めたセフィロスは、手綱と共にスレイプニルの鬣を掴む。
周りの景色はあっというまに視界の中を流れ去り、左右は枯れ草が靡くミッドガル外の平原へ変わったが、その馬上では風圧も風の冷たさも感じなかった。

しがみつく姿勢のまま、ちらりと後ろを振り向けば、ミッドガルの明りは遠のき、先程までいた廃屋は既に見えない。
夜闇に落ちた平原の中、街を囲む魔晄炉と、白く天に伸びる本社ビルの明りだけが浮かび上がり、プレートの下は月の光さえ届かない闇に飲まれていた。
その姿に、セフィロスは僅かに目を細めて、視線をスレイプニルの行き先へ移す。

平原の先、カームの明りを遠く左手に見ながら、そびえる山々を超えていくと、スレイプニルは徐々に高度を落としていった。
広い川の水が月明りを反射する様を見下ろしていると、その畔に小さな森が見えてくる。
緩やかに草の上を駆け始めたスレイプニルは、森の入り口で足を止め、背にいる彼に振り返る。
薄く広がる雨雲の下、雨露を葉の上で眠らせながら、木々は静かに佇んでいた。


















結構怒ってたな……セフィロス。


浅い呼吸に溜息を混ぜながら、はぼんやりと考える。
ミッドガルから離れた場所にある森は静かで、地面に腰を下ろしている彼女の他には、見張りに立っているオーディン以外誰もいない。
彼の手によって連れ出されたは、この数時間、地べたに座り細い木に背を預けながら身を休めていた。
雨上がりの森独特の臭いには既に慣れたが、時間が経つにつれて肌寒さが増してくる。
見かねたオーディンが貸してくれた外套を羽織ってはいるが、濡れた髪の冷たさまで暖めてくれるわけではなかった。

暢気に世間話でもできれば、時間などあっという間だろうが、それをする気力すら沸いてこない。
魔晄炉から離れたおかげで、随分と体が楽になり、意識を奪われる事も無くなった。
だが、随分長いこと座り込んでいるというのに、彼女の体力も魔力も一向に回復する気配が無い。

腕を上げるのも億劫で、疲労のせいか、どこかぼんやりとしている。
なのに、意識だけはいやに冴えていて、眠りに落ちたがる気配が全く無いのが不思議だった。
散々魔晄を浴びて、その洗礼を受けたからだろうか。
体の中には、まだ魔晄の力と、それを通して入り込んだ星の意思が残っている。
異物感を消し去るか、吐き出そうかと試行錯誤してみたが、結局は無駄な足掻きのようで、それらは根が張ったように彼女の中から離れる事はなかった。


また体を奪われるのだろうか。

いまそれが起きたなら、抵抗するだけの力を回復していない意識は、あっさりと体の主導権を明け渡してしまうだろう。
セフィロスが来てくれたから、騒ぎを大きくせずに済んだが、次もまた彼が止めてくれるとは限らない。
ソルジャー2ndであるザックスにさえ、自分は深い傷を負わせてしまったのだ。
セフィロス並の力を持つ人間が止めに来てくれるなんて、そんな幸運が何度もあるはずがない。
そもそもそんな人間は何人もいないし、いてもウータイとの戦争に行ってしまっているだろう。


今度は誰を傷つけるのだろうか。

考えて、は深く目を閉じる。
もうミッドガルには戻れない。仮に戻れたとしても、魔晄炉に囲まれた街など、何時自分がどうなるかわからなくて帰る気になれない。
けれど、帰りたくないわけではなかった。だから厄介だと思う。

ルーファウスはどうしているのか。彼なら上手くやってくれるだろうが、それにしてもかなり迷惑をかけてしまった。
レノも今頃忙しく走り回っているのだろう。まぁ、彼なら『それも仕事のうち』と言って、気にしてなどいないだろう。
魔晄炉での事故は、神羅の不手際によるものだ。誰もがそう思うし、それ以外の何者でもないと考える。
だが……。

魔晄を通して星の意志に侵食される中、は否応無く直にその意図に触れた。
感情の無い思考の渦に飲まれながら、入り込んできたそれらの中にある唯一明確な意識は、真綿の中で剥き出された刃のようで、簡単に見つける事が出来た。

彼女の理解が及ばない深い因縁を絡めながら、ただ一つの標的に向けられたそれは、人という生き物が生む殺意よりも研ぎ澄まされていた。
何の感情もはらまず、過ぎるほどに機械的で、なのにそれは、白紙の上に落ちた一滴のインクを吐き気をもって忌むように潔癖だ。
手の内に起きるだけの不詳のみを許す完璧主義者のようだと思う。いや、それよりはずっと慈悲をもって手の内にある者を眺めているかもしれない。視点によって見解はかわるだろう。
とりあえず、それが『この世界というもの』だと理解できた。しかし、そんな事は、にとって正直どうでも良い。
問題は、この世界が持つ刃の切っ先が差す方角にいた人だ。

何故、よりにもよって彼なのか。

彼の声を思い出し、混沌へ変りかけた記憶からその名を見つけ出した瞬間の、歓喜と安堵。
それを覆うように捻り込まれた偽りの憎悪と殺意は、が知りえなかった答を囁いた。
『ジェノバ』と、かの意思はセフィロスの姿を見て囁いた。それが如何なる意味をもつか、に知る由などない。
けれど、この星の意思には、彼女にそれを教える理由などないのだ。それにとって、彼女の意思など、道端に転がる小石のように些細なもの。
彼女が疑問を挟むより早く、星は体の主導権を奪い、セフィロスの命を奪うために動き出した。

幸いだったのは、その時、の体がロクに動かなかった事だろう。
武器が無くなっていたのも幸運だ。

この手が彼の命を奪うなど、想像だってしたくない。考えた事もなかったのだ。
願っていたのはいつもそれとは真逆の事だったのだから、思考の端にかかる事だってなかった。そんな考えや予感が僅かでもあったなら、この世界に噛り付いてでも留まりたいなどとは思わなかっただろう。
彼の傍で生き続ける事しか考えていなかったのだ。どうすればそれが出来るかと、どうすればこのままの平穏を維持できるのかと、それだけが全てで、他の事など考えなかった。
知っていたなら、セフィロスがそうしたがっていたように、生まれ育った世界に帰る事を選んだだろう。
この世界の事情など知った事ではないと言い、彼が生きる事だけを願い、彼をこの手にかける事が決して無いように、この世界から去ることを選んでいた。
帰ったところで、自分は僅かにも生きる事は出来ないなどと、教える事はなかったのだ。引き止めうる理由は秘め、見つけられたとしても全て排除していたはずだ。


どうしてこうなったのか。どこで間違ったのか。どう選択すれば避けられたのか。


答など出るはずもない問いばかりが浮かび、は小さく溜息をつく。
賢者の名を持つオーディンなら知っているだろうかと、彼の顔を見上げてみるが、彼が答をくれたとしても、今更どうにもならない。

視線に気付き、小さく首を傾げた彼に、は何でもないと笑って、視線を地面へと戻した。

考えるなら、これからの事だろう。
落着いて体を休める場所が必要だが、それを得るために必要なものをは持っていない。
そもそも、そこまでたどり着けるだけの体力が回復してくれるかも疑問だ。
全快したところで、また魔晄と星の意思に体を奪われる結果があるだけのような気がする。



「……オーディン」
「何だ?」

「もし私が命じたら……お前は…私を殺せるか?」
「…………必要とあらば」


一瞬の思案の後、はっきりと言い放ったオーディンに、『ああ、彼らしいな』と、は小さく笑みを零す。
気休めで、そんな答を言う男ではない。短い沈黙のうちに、呆れるぐらいの思考をめぐらせた上での結論なのだろう。
だから、は安心して肩の力を抜く事が出来た。最悪の事態を避ける事ができる希望に、抱えていた恐れが大分和らぐ。


「なら、その時は頼む」
「承知した」


ためらう事無く頷いたオーディンに、は笑みを深くする。
だが、ふと、彼が目的を邪魔する者にも容赦しない……それこそ、いっそ笑えるぐらいに情けをかけずに邪魔者を葬る事を思い出して、は少し不安になった。
もしセフィロスがこの事を知って邪魔をしようとしたなら、多分オーディンはセフィロスまで始末しかねない。
セフィロスでなくとも、他の召喚獣が相手だって、オーディンはやりかねないだろう。
召喚獣の中では、一番理性的で真っ直ぐな性格をしているオーディンだが、その本性は召喚獣一凶暴で好戦的だ。しかも、これでかなり頭が良いので、一度スイッチが入ると手に負えないという、『良い奴だけど面倒臭い奴』の典型のような性格をしている。


「邪魔があっても、相手にするな。私だけを狙え」
「…………承知した」


若干不服そうな顔をして答えたオーディンに、本当に承知しているのだろうかと思いながら、はとりあえず会話を終わらせる。
いくらか和らいだ気がする寒さに、空を見上げて木の葉を見るが、それらを揺らす風が収まった様子は無かった。

チリリと、胸元に熱さを感じて、は服の中をまさぐる。
熱の元であるペンダントを服の中から取り出せば、トップにある赤い石が、何かを主張するように魔力を零していた。

熱をはらんだ特徴的な魔力は、イフリートのもので間違いない。彼の事だ。今のオーディンとの会話に、文句を言いたいに違いない。

その気持ちは、素直に嬉しいと思う。
が、仮に出てきて喋らせても面倒くさくなりそうなので、はイフリートの主張を無視してペンダントを服の中に仕舞った。
本当に必要な言葉があるなら、オーディンの魔力でも使って勝手に出てくるだろう。
それに、このままピーピー主張だけしていてくれていた方が、暖かくて具合が良い。


「良いのか?」
「今の私は、召喚魔法が使えない。どうしようもないだろう」


欠片とはいえ、マテリアがあるのだから、イフリートを呼び出す事は不可能ではないのかもしれない。
しかし、普通のマテリアでさえ扱ったことが無いのに、この状況でわざわざリスクを増やそうと思うはずがなかった。

それを分かっていて、セフィロスは欠片にしたのだろう。召喚マテリアは貴重だと聞いているが、まさかこのためにわざわざ砕いたのだろうか。
嬉しいような、申し訳ないような……。しかし、召喚獣の中で最も付き合いが長いイフリートを選んでくれた気持ちは、素直に嬉しかった。


「来たぞ」


オーディンの声が差す方へ目をやると、木々の間からスレイプニルが纏う青白い炎が見える。
立ち上がろうとして、しかし全く力が入らない体に、は溜息をついて木にもたれかかった。
草を踏みしめる音に混じる、ゆっくりとした蹄の音は、いまだその影が朧に見える距離にありながら、静まる森の中に響き渡るようだった。

木々と雲の合間から気まぐれに差し込む月明りが、黒馬と、その傍らを歩く銀の髪を照らす。
その姿を目にすると同時に、の中には柔らかな安堵が浮かび、それを覆い隠すほどの狂気に似た歓喜が生まれる。
頬は自然と笑みを作り、腕は彼に手を伸ばしたがりながら、思うままに動かない体と共に震えた。

冷や水を浴びせられたような彼女の意識はそのままに、突如全身へ広がった魔晄の力に四肢がビクリと反応する。
浮かべていた笑みは引きつったそれに変り、唯一自由に動く眼球は、ひとりでに動き出そうとする体を凝視していた。

金属が擦れる音に視線を向ければ、オーディンが剣に手をかけ身構えている。
それに、彼女は安堵した。だが同時に、こんなに早く、先ほどの頼み事が叶ってほしくはないと思う。
いつでも剣を抜ける状態のオーディンを目で制し、は身の内にある魔力と魔晄の力に集中する。
血のように全身を巡る魔力から、こびりつく異物を引き剥がせば、それは抵抗するように体の中で蠢いた。
早速大きな抵抗を始めた魔晄の力を、魔力で押し流すように左手に集めると、そこは外套の中で青緑色の淡い光を放つ。
封をするように手首を魔力で固めると、そこから先の感覚は無くなり、彼女のものではなくなった。
その上、一部に魔力が集中したせいで、体の感覚が自分自身ですら存在を疑うほど薄れ、朧なものに変わる。


「……無茶をする……」
「……だが、見事だろう?」


即席の封印とはいえ、ほんの十数秒で体内の魔晄を押さえてみせたに、オーディンは大きな溜息をついて頭を振った。
血の気が失せた顔をしながら、微かに口角を上げたは、覇気の消えた目でオーディンに言葉を返す。
すぐに笑みを消した彼女が、乱れる呼吸を静かに抑える姿を見下ろしていたオーディンは、やがて観念したように彼女の傍へ膝をついた。

の体を包む外套を捲り、青緑の光を放ちながら痙攣する左手を見ると、彼は自分の腕にある籠手を外して彼女の手にはめた。
兜の中にあるオーディンの唇が何事か呟くと、与えられた装備の表面にも知らない文様と陣が淡い光となって浮かび上がる。
オーディンの魔力が肌に刻み込まれる感覚が訪れるも、それはすぐに収まり、同時に、左腕にあった装備は彼女の体に馴染む大きさへ変った。


「……長くはもたんぞ」
「十分だ。ありがとう」


半ば強引に体に流し込まれたオーディンの魔力に僅かな眩暈を覚えながら、は幾分かましになった体の感覚に安堵して、セフィロス達がいる方へ視線を向ける。
長く伸びた草を掻き分け、ようやく達がいる少し開けた場所へ着いた彼に、彼女はぼんやりと目を細める。



「……大丈夫か?」
「そう、見えますか?」

「分かっていて言っている」
「……私だって予想外だったんですけどね。ですが、ご心配をおかけしました」


少しだけホッとした様子を見せるものの、セフィロスの機嫌の悪さは完全に顔に出ている。
もう少しピンピンしていたら、頭に拳骨を賜っていたかもしれないと、はひっそりと息を吐いた。
途中からセフィロスの後をついてくる形になったスレイプニルは、こちらには目もくれず、主の下へ行ってその胸に鼻を押し付けている。
甘えてくる大きな馬に押され、よろけたオーディンは後頭部を木にぶつけていた。
金属音と共に短い悲鳴が漏れ聞こえたが、とセフィロスはそれを軽く一瞥しただけで、放置する事に決める。
呻きながら頭を振って立ち上がったオーディンは、スレイプニルを宥めると無言でその場を離れていった。

地に片膝をついたセフィロスは、彼女の黒髪に指を通し、その顔を確認するようにそっと前髪を上げる。


「……酷い顔色だ」
「……貴方だって、随分疲れた顔をしてます」

「お前ほどじゃない」
「……まぁ、そうでしょうね」


呆れた顔のセフィロスに、は内心胸を撫で下ろすと、横髪を梳く彼の手に頬を摺り寄せた。
雨の中を歩いてきた彼の手は冷たく、彼女の肌から体温を奪ったが、交じり合う温度に心地よさを覚える。
小さな擦り傷が残るの頬を包みながら、彼は彼女の目尻についたままの土埃を親指で拭った。
その感触に、くすぐったそうに頬を緩めた彼女は、彼がついた深い溜息に視線を上げる。


「ルーファウスに感謝しておけ。無理をしたが、上手く収集をつけた」
「……そう、ですか……」

「お前は……魔晄炉に落ちて、死んだ事になった。神羅の不祥事を隠すため、お前が存在した痕跡は消さるだろう」


それは好都合だったと思いながら、は胸を掠めた寂しさに瞼を伏せた。
いつもなら見て見ぬふりをする感情も、今となっては目を背ける意味が見当たらず、彼女は静かに心を委ねる。
唐突な事態の転向のため、別れの言葉すら伝える間も無かったが……ルーファウスの事だ。そんな言葉など無くとも、全てを察し、受け止めてくれるだろう。それで良いだろうと思わせてくれる人だ。

だが、今目の前にいる彼はそうではない。
セフィロスは、ルーファウスのように冷静に理解する事が出来るほど、距離をとった関係ではなかった。

それで良いと思っていた。それに対し後悔など無い。互いの呼吸が感じ取れるほど近く、心を添わせたいと願う人に、離別を考慮した距離など持つはずがなかった。

だから、どう伝えて良いのかわからない。
否、伝えたくないのかもしれない。伝えずに終える事が最良ではない事も、避けて通れない事も知っている。
けれど、言葉にはしたくないのだ。声にすれば、肯定と諦めを受け入れた事実となる気がして、まだ『生きたい』と足掻く自分を沈黙させてしまう。
手立てなど無いと分かっているのに、もう少し、もう少しと願うが故に、避けて通る事ができないものから目を背けたがっている。


「……記録が消されるだけだ。記憶まで、消されるわけじゃない」


迷いの沈黙を、悲懐と受け取ったのか、セフィロスは慰めの言葉を呟く。
『けれど、人の記憶は薄れるもの。いずれ、顔も思い出せなくなる』そう口にしようとしただったが、未来を疑わずにいる彼の目を見ると、それを言葉には出来なかった。
時折起きる騒動の後と変らない彼の様子が、固まってすらいない覚悟をバラバラに崩してしまう。
それでどう言葉をかけろと言うのか。何故否定したい事を、言葉にしなければならないのか。

口にすれば、その現実は間違いなく彼を傷つけ、仮に口を閉ざしたとしても、それは更に大きな傷を彼に与えるだろう。それを分かっているからこそ、余計に口にする事が出来なかった。
彼の心を傷つける事だけは、何があっても避けたかったというのに、そうする事が出来ない自分に歯がゆさを感じる。
けれど、この迷いの中に留まる僅かな時間すら、今の彼女には惜しかった。


「……最後まで、手間をかけてしまいましたね、貴方にも、彼にも……」

「……最後……?」
「世話になった、と。感謝していると、伝えておいて下さい」


瞼を伏せ、彼の肩に頭を預けながら言ったの言葉に、セフィロスは怪訝な顔で彼女を見下ろす。
終わりを知らせる言葉に、寄せられた体を引き離そうとするが、彼女はそれを拒むように彼の背に手を回した。
胸元に頬を寄せる彼女の表情は、髪に隠れて確かめる事が出来ず、代わりに、濡れた瞼の感触が、全ての答えのように肌に伝わってくる。

彼女が言わんとしていることが理解できず、半ば呆けた彼の思考は、白い空白のようだった。
いつになく甘えてくる彼女に、甘美な心地を覚える暇もなく、過ぎる考え、過ぎる予感の全てに、混乱する心が否定を押し付ける。

突然すぎる事態の変化と、予想だにしない状況に、まともな思考が働いてくれるはずなどなかった。
かけるべき言葉が思考から飛び、問うべき事が感情の中に埋もれ、言葉を吐き出そうとする唇も上手く動いてくれない。


「ザックスにも、すまなかった…と」
「…………

「レノには……いや、あの人は……いらないと言うでしょうね……」



言葉を遮るように語気を強めた彼に、はゆっくりと顔を上げる。
困惑の表情を浮かべる彼の目は、いつか星の下で見せた幼子のような姿を思い出させ、その懐かしさに彼女の頬は自然と緩んだ。
あの頃から、長くなりを潜めていた脆さと危うさが垣間見え、彼の行く末に大きな不安を持つ。
だというのに、寄りかかる体を引き剥がす事もせず、柔く身を包む腕に、大きな安心を覚えた。

それら全てを手放さざるをえない事が、夢のように思えた。


、お前は……何を、言っている?」


焦りが見える顔で、たどたどしく言葉を紡いだセフィロスの体を、は服を引いて引き寄せる。
つられるように草の上に腰を下ろした彼は、確かめるように彼女の体に触れながら、いやに穏やかな彼女の瞳を覗きこんだ。


「最後とはどういう意味だ?」


どんどん顔色が悪くなっていく彼を見つめながら、はまた笑みを作る。
どう答えたら良いのか、どう言葉にすれば良いのかとずっと考えているのに、まだ上手い言葉が見つからない。
この状況が、全て予想外の事態だったのだから、当然だ。今朝起きたときは、もっと長い時間が残されていると思っていた。
こんなに簡単に終わりがくるなど、考えてもみなかったのだ。
どんな言葉にすれば良いかなんて、わかるわけがない。

身を包む彼の腕は、答えを急ぎ、また、離れ難いと伝えるように、徐々に力を増してくる。
何故、それに答える事が出来ないのかという思いは、彼女の胸の内を酷く締め付け、同時に泡沫の夢に浸るような心地よさを与えた。


「答えろ……


緊張に掠れた声で、彼が問い、名を呼ぶ。
その唇は、あと何度この名を呼んでくれるのだろうか。
何度その唇から紡がれるこの名を聞くことが出来るのだろうかと、そう考えた自分を罰するように、視界にある彼の姿が途端に滲んだ。

彼が息を呑む気配がした。
その心が砂の彫刻のように脆く歪む錯覚すらした。
木々を大きく揺らした、一筋の風のせいだろうか。

頬に伝う雫を、彼の指がそっと拭う。
その感触に、は一度目を伏せ、彼がそうするように、自身の右手で彼の頬に触れる。
悟りかけ、絶望の色が混じり始めた彼の瞳を見つめながら、彼女は掌に伝わる温もりを確かめた。
触れる事が叶わなくなるのは、数分後か、数日後か。
その時彼は何処で何をしているのだろうと考えながら、彼女は彼の唇に自分の唇をそっと重ねた。

微かに触れただけの口付けは、言葉より明確に答えを語る。
呆然とするセフィロスに小さく笑みを零したは、いつか彼がそうしたように、額と額を重ね合わせた。


「……終わりです」
「…………」

「最後まで、足掻くつもりです。でも、時間も、力も、もう残っていないみたいだ」
「…………」

「出来るなら、もっと長く貴方の傍で生きたかった」
「…………」

「……………………すみません」
「…………」


言葉を続けるほどに色を失っていく彼の瞳に、は息苦しさに似た痛みを覚えた。
けれど、その瞳は瞼で覆い隠す事無く、網膜に焼き付けるかのように彼を見つめている。
強張る彼の手が、ゆっくりと彼女の体を引き離そうとするが、そこに力は全く入っていなかった。


沈黙に、木々のざわめきが混じる。

雨上がりの森の匂いは、はらはらと舞う木の葉と共に風に浚われ、雨雲が去った空に流れていった。
天上にある月は木々の影に隠れ、数多と浮かぶ星々の光が、遠い濃紺の中に揺れる。
見上げたなら、いつかの空を思い出し、懐かしさに思いを馳せるかもしれない。
時折流れては消える瞬きに心を躍らせ、まばたきする間すら惜しんで、遥か彼方の輝きに目を凝らすだろう。
けれど、彼女達の上に星は無い。若い木の幹と、冬を受け入れて色を変えた葉が、二人の上にある空を覆っていた。


「……何故だ……」
「私が……魔晄の力を受け入れなかったから……でしょうか。受け入れれば……ほら、貴方が魔晄炉で止めてくれたでしょう?ああなるんです」

「……どうして……」
「意のままに動く駒である必要があったのでしょう。このままでは、私が障害に成り得ると……そう判断したのかもしれません」

「……お前は……」
「良いわけがないでしょう?生きたいですよ、私だって。でも、もう時間が無い」

「……何か……」
「……魔晄の力を受け入れれば、あるいは…………。でも、きっと……いえ、間違いなく、私はそこにはいないんです。いるのは私の姿をした別物で、それじゃあ何の意味も無い。それに……」

……」
「私の体を得た別のものは、貴方の命を脅かそうとするでしょう……魔晄炉の時のように。そうなれば、きっと、あの程度の被害では終われない。駒の命など消耗品です。魔力が枯れる事など恐れない。……私がどれだけ厄介な魔法を使うか、貴方は知っているでしょう?」

「…………」
「……私に、貴方を傷つけさせないで下さい」


彼が何かいうそばから、悉く希望を潰していく自分の言葉に、は『非情だな…』と、頭の片隅で考える。
改めて口にすると、本当に八方塞がりで、笑いたくなると同時に泣きたくなった。
一度引いた涙がまた流れる事はなかったが、その代わりのように、セフィロスの目の端がほんのりと赤くなる。
まさか泣くのかと驚いただったが、セフィロスは詰まった息を吐き出しただけで、その睫が濡れた様子は無い。
だが、それに近い興奮状態ではあるようで、僅かに震える彼の肩は息をする度上下していた。


「…………お前は……」
「…………」

「……いつも、唐突だ……」


言葉を遮ることをやめたに、セフィロスは溜息混じりに言うと、彼女の肩に額を預ける。
その手は恐れるように彼女の腕に触れ、痛いぐらいの力で掴んでくる。
じりじりとした痺れが左の手首から腕に走り、オーディンが刻んだ文様の跡と、胸が、その奥が熱くなった。




『避けられる道を何故選ばぬ』



響く声と共に、の胸に焼け付く痛みが走った。
熱を孕んで震える魔力を感じ、は咄嗟にセフィロスの体を突き飛ばすと、地面に体を打ちつけながら胸元を押さえる。
噛み付くような痛みと焼け焦げる臭いに顔を顰めながら、外套の前を乱暴に開くと、焦げたシャツの中から炎の糸を伸ばすマテリアの欠片が露になった。
それは外気に触れると瞬く間に宙へ流れ出で、歪な炎の召喚陣を描く。


!」


木の葉を揺らす熱風と魔力の中、セフィロスはの元へ駆け寄り、苦悶の表情を浮かべる彼女の手をその胸元から剥がす。
未だ炎を放つマテリアの熱に、それを覆う金属は赤く色を変え、彼女の胸の皮膚もまた赤く血を滲ませていた。


に触れるな!』
「っぁあああ!!」
「っ!」


言葉を交えた獣の咆哮と共に、マテリアから更なる炎の糸が噴き出し、の喉から搾り出すような悲鳴が上がる。
辺りを襲う熱風に炎の欠片が舞い、赤い召喚陣が更に歪むが、絶えずマテリアから流れる糸が後から後からそれを継ぎ足していった。

陣の端々から落ちた火花が辺り飛び、湿る木々に触れては爆ぜて降り注ぐ中、陣の中央にある空間が歪み始める。
不完全な召喚陣で無理矢理こじあけられた次元からは、紅蓮に燃える鉤爪と血のように赤い瞳が覗いていた。


「イフ…リート……」


数多の法則を破り、灼熱の身のままに現れようとする煉獄の獣王に、は顔を顰め、傍らのセフィロスを見る。
術士を守るための制御をしないばかりか、降り立つ地を荒野とする事も厭わずに現れる。それは、召喚獣自身が一切の制御を捨てて戦いに挑むという事だった。

戦いの最中に召喚されるものや、力を試されるものとはわけが違う。それは、もはや人が挑み、容易に勝利を収められるようなものではない。
セフィロスもそれを感じているのだろう。顰めた顔には暑さとは違う汗が浮かび、その目は既に戦いの時のそれに変わっていた。

だが、広がっては閉じる次元の裂け目に、未だイフリートの体が現出できずにいる事を理解すると、彼は彼女へ振り返り、その胸元に手を伸ばしだ。
途端、再び獣の咆哮と炎が溢れ、彼女の悲鳴と共に次元の裂け目が広がるが、彼は構わずペンダントを掴むと、彼女の首にかかる鎖を引きちぎった。
グローブを焦がそうとする炎の熱に僅かに顔を顰めるも、彼はペンダントをイフリートの方へ投げ捨てる。
召喚陣の下に転がったペンダントは、描かれる陣に呼応するように膨大な炎を吹き出し、雨露に濡れていた地や草から水蒸気を発生させた。


「シヴァ!!」


セフィロスが咄嗟に名を叫んでマテリアを放ると、召喚の発動を待たずして現れた冷気がセフィロスとの周りを覆う。
その僅かな後、陣から漏れた炎が高温の蒸気を孕んで辺りの木々を包み、景色を赤く染め上げた。

轟音と炎は空の色を変え、セフィロス達を囲む冷気が熱に煽られて揺れる。
侵食する炎を阻まんとマテリアから噴き出す冷気は、氷の粒へ変わりながら壁を作り上げ、辺りを飲み込む炎に絡みついた。

溶け合って気化した蒸気が天上に昇り、彼方へ向かい始めた雨雲を引き寄せて交じり合う。
月を食らい膨れ上がった暗雲は、その内に稲妻を抱えながら地上が引き起こす音を覆い潰した。






召喚獣、もう出さいつもりだったのに…なんでいっぱい出てるんだろう…(´・ω・`)
多分、一番首捻ってるのは書いてる私だと思うよ…(´・ω・`)
ってゆーか、イフリート、空気読めよ…(´・ω・`)

2012.01.13 Rika
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