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「私の妻になる気は無いか?」


聞きなれた声が紡いだ聞き慣れない言葉に、彼女の思考は一瞬白に変わる。
いつもの冗談を予想し、まっすぐに見つめる彼の瞳の奥を覗くが、そこには彼女が見知った色は無かった。

『これは戯れ』
それ以外の答えなど無いはずなのに、全神経が、ルーファウスの一挙一動に集中する。

唾を飲み込む僅かな咽の音さえ、大きく響くような錯覚。
続く言葉を求めて交える視線にさえ不安を覚え、フォークを手にしていた手が自然とテーブルの上に降りる。

僅かな戸惑いを覚えた自分に微かに驚きながら、は慌ててそれらを押し止めた。
彼の瞳は変わらず、けれど次の瞬間、僅かに彼の感情が揺れ動く。

それを認めたのは一瞬。
刹那に満たない間に見えた瞳の揺らぎは、次の瞬間幻のように消え去っていた。

笑みを作るでもなく、情の熱を見せるでもない。
微かな心情さえ覆い隠す彼の瞳は、時を止めた水面のように、彼女を映していた。










Illusion sand − 98






「私の妻という立場になれば、科学部は手を出す事が出来ない。私の後ろに立つ……それだけだ。実に簡単で、確実な方法だと思わないか?」
「…………」

「悪い話ではないだろう」


微かに口の端を上げて見せたルーファウスを見つめ、は僅かに目を眇めた。
冗談めかした上面は、一瞬前に垣間見えた彼の真意を徐々に隠していく。
けれど、はぐらかし、有耶無耶に終らせる気配は見えない。


「……貴方は……何を望んでいるのですか?」
「望み?」

「何を求めていらっしゃるのです?何故焦る?貴方らしくない言葉だ。違いますか?」
「……分からないか?」

「………例え、今私が貴方の提案に頷いたとしても、頭を悩ませる問題がすりかわるだけだと…貴方がそれを分からないはずがない」


答えに気付いていてもおかしくない言葉を並べながら、彼女は何故だと聞いてくる。
珍しく、逃げているのだろうか。
そう考えて、それは自分も同じだと、ルーファウスは微笑を微苦笑へと変えた。

結末など考えるまでもなく、承知の上で言い出した者が、今更何を怖気づいているというのか。
己の滑稽さと、そこにある僅かな凡人らしさを心中で嘲笑った彼は、静かにグラスを置いて彼女と視線を合わせた。


「求婚を断るなら、それなりの理由といものが必要だ」
「ルーファウス……」

「答えろ。逃げる事は認めない」
「…………」


彼の言葉を現実として受け入れきれず、怪訝な顔で問い直そうとしたの言葉をルーファウスは遮る。
僅かに視線を彷徨わせ口を閉ざした彼女は、数秒彼と見つめあうと、観念したように目を伏せた。

閉ざされた視界の外には、店内に流れる静かな音楽と、人々の囁きがある。
衣擦れの音すら立てず待つルーファウスの視線を感じながら、混乱に揺れそうになる感情を一つ一つ確かめた。
けれど、どれほど考えたところで、伏せられた瞼の裏にいる人が、今答えを待つ彼に変わる気配は見えない。

それも、きっと彼は予想しているだろう。

頭も良く、落ち着いているはずなのに、妙なところで突拍子も無い選択をする人だ。
そう溜息をつきたくなるのを押さえ、はゆっくりと瞼を上げると、無言で見つめるルーファウスと視線を合わせた。


「傷つけるだけの契を結ぶ気は無い」
「…………お前らしい答えだ」

呟くと、ルーファウスは微かに笑みを浮かべ、窓の外へ視線を移す。
未だ腑に落ちない心地を抱えたまま、その横顔を見つめたは、それ以上の反応を得られない事を察すると、静かに視線を落とした。

理解できていないだろう、と……尋ねる事すらしない。
計算の上での言葉も続けず、曖昧なままで終らせようともせず、突き放す事もせず。
平行線の関係上から動かないまま、透明な感情の糸だけを絡めて見せる。

その糸の先は、彼女には見えなかった。


「今のところは、合格にしてやろう……」
「…………」


ゆっくりと、視線だけでこちらを見るルーファウスの顔に表情は無く、その唇から発せられた言葉と共に、に僅かな混乱を与えた。
見つめ返した見透かす瞳にさえ、彼は笑みを返してみせる。


「何も変わりはしない。……お前は、お前が好きなようにするといい」
「…………」

「……私もまた、私に従って生きよう」
「ルー……ファウス……?」


自身に言い聞かせるように、小さく呟いたルーファウスは、彼女が呼ぶ声を遮るように視界に入った前髪を払った。
何気なく向けた視線の先に、店内に置かれた大きな振り子時計を見つける。
9を過ぎた短針を眺め、へと視線を移せば、彼女も懐から出した懐中時計を確認していた。


「今時その形の時計を使っている女性は、珍しいだろうな」
「……昔、仲間に貰ったものです」

「そして、セフィロスから返された……か」
「そんな事まで聞いていたんですか?」

「………………」


肯定ではあるが、時計を見つめたまま、口を閉ざしてしまったルーファウスに、は微かに首を傾げる。
掌にある馴染んだ感覚を確かめ、蓋の裏側に刻まれた文字を目で辿った彼女は、そこに残る僅かな過去に緩く瞼を伏せた。

澄ませた耳には、僅かな砂の音が響く。
閉ざす視界に映る新緑の世界は、無数の花弁が散るように朧で……だからだろうか、これまでより強く心が惹きつけられる気がした。

まるで、背を向けようとする自分を阻むように。
そう思うのは、考えすぎだろうか……。



「そろそろ時間だ。部屋まで送ろう」


流れた沈黙には触れず、席を立ったルーファウスに、は後に続く。
店内のざわめきに紛れながら、僅かに大きくなった気がする秒計の音に、彼女は服の上からそっと時計を押さえた。


「どうした?」
「……は?何がですか?」


エレベーターの前で立ち止まった瞬間、振り返って聞いたルーファウスに、は目を丸くして返す。
彼に知られぬようにポケットから手を離す数秒。
僅かに視線を彷徨わせた彼は、何も言わず視線を前に戻すと、ゆっくりと最上階へ近づいてくるエレベーターのランプを見つめる。

夜が更けたホテルの廊下は静かで、人もまばらでしかない。
遠くにある小さな喧騒の延長にある場所で、確かに耳の奥に感じる砂の音に、は捕らわれまいと現実の音に耳を澄ませた。

目の前に立つ彼が立てた、僅かな衣擦れの音。
けれど、ルーファウスが再び振り返る事は無く、が時計を握り締める事も無かった。

機械音の後、静かに開いた目の前のドアから、小さな密室へ入る。
部屋があるフロアのボタンは最上階から大分遠く、ドアが閉まると独特の浮遊感が砂の音を遠ざけた。

長い沈黙の後、静かに開いたドアから廊下に出ると、並ぶドアの向こうから僅かに生徒達の声が聞こえる。
静まっていく砂の音とは対象に、新たに生まれた僅かな耳鳴りに、は小さく頭を振る。
それと同時に、足を止め、ゆっくりと振り返ったルーファウスに、彼女は彼に全ての音が聞こえていた事を確信した。


「…………」
「……難儀ですね……本当に」


言葉を待つように視線を逸らさない彼に、は微かに目を伏せて呟く。
答えるかのように強く時を刻み始める時計をそっと取り出し、蓋を開けた彼女は、そこに刻まれた文字を記憶に焼き付けた。

蓋を閉じ、一度強く時計を握り締めた彼女は、その様子を見守っていたルーファウスに時計を差し出す。


「……貴方が持っていてください」


その言葉に、彼女の掌の上を見つめていた彼は、ゆっくりと彼女の顔へ視線を移した。


「大切にしていたものだと聞いたが?」
「……これは、私とあの世界を近づける」


だから手放さなければならない、と続けたに、ルーファウスは再び彼女の掌へ視線を戻す。
セフィロスに返す事も、捨てるという選択肢も選ばない彼女に、彼は僅かばかり彼女の真意をはかりかねた。

否、答えはすぐに記憶が知らせた。
『仲間』に貰った、唯一残っている物だからだろう。


「……それを……私に残すというのか……?」
「迷惑なら……貴方の手で処分して下さい」

「何故、セフィロスがお前にそれを返したか……考えてはみなかったか?」
「…………」


問いかけに、の表情が僅かに変化する。
今の言葉が、彼女の中にあった疑念を確信に変えた事を理解し、ルーファウスは僅かな驚きを覚えた。

傍から見れば、忠犬のようにセフィロスを信じきっているだ。
彼が自分を遠ざける手段を与えるなど、考えないとばかり思っていたが……。

疑っていたのか、思考の中で生まれた過程の一つだったのか。
恐らく後者だろうが、どちらにしろ、彼女がその考えを完全に振り払っていなかった事に変わりは無い。

そこで従順さよりも、リスクがあろうと自分の意思を貫こうとする辺りが、彼女らしいと思う。
時計を捨てず、他の男…しかも、ついさっき求婚を断った相手にくれてしまう鈍感ぶりも流石だ。


「これは貰っておこう」


苦笑いする自分に首を傾げるから、ルーファウスは時計を受け取る。
手に取った瞬間静まった秒針の音に、彼は僅かに目を細めたが、今はすぐにポケットに仕舞う事にした。


「ミッドガルへ戻るのは、日曜だったか……。それまでに、もう一度時間を取る事は出来るか?」
「土曜が丸一日自由行動ですので、その時に……」

「では、明日の夜また連絡するとしよう」
「承知致しました」


従順な返事をするに、ルーファウスは数秒彼女を見つめながら、生まれてきた言葉を飲み込む。
先ほどまで彼女にあった気安さは成りを潜め、あっという間に仕事に徹する顔に戻ってしまっていた。
気安さと言っても、普通の人間から見れば十分近寄り難いのかもしれないが、それなりに洞察力がある人間なら、彼女の空気の変化はわかるはずだ。

なるほど、これがの「教官」としての顔か。
そう思いながら、彼女の顔に見えた僅かな疲れの色に、ルーファウスは目を細める。

元々、彼女の顔は頬が染まるほど血色がよいわけではない。
病的ではないが、明るいとは言えない廊下の照明のせいか、彼女の顔色が優れているようには見えなかった。
ジュノンへ着くまでの道中を考えれば、彼女が疲れていて当然だが、彼女が顔に出るほど疲労している姿は珍しいと思う。


「気休めだが……無理はするな」
「わかっています」

「どうだろうな……。お前のそういう所だけは、信用できない……」
「……善処しますよ。死ぬ気はありませんから、ご心配無く」


やれやれと言った顔で笑う彼女に、ルーファウスはそっと彼女の頬へ手を伸ばす。


「ぁああ!」
「馬鹿、アレン、声出すなよ!」
「自分だって出してるじゃーん」
「あーあ、こりゃ完全にバレちまったぞぉ?」


「…………」


後ろから何か聞こえた。

声を抑えてはいるが、静かな廊下では十分聞こえる声でされる会話に、ルーファウスは手を止めて後ろを見る。
前から聞こえた深い溜息に視線を戻せば、眉間に皺を寄せたが、声がした方を呆れ混じりに睨みつけていた。


「お前達、盗み聞きはやめなさい」
「大人の世界の社会科見学っス!」

「馬鹿を言っていないでドアを閉めろ!」
「了解ッス!」


元気な返答で、見事な馬鹿っぷりを披露した茶髪の少年は、に怒鳴られた瞬間笑顔で敬礼する。
よほど仲が良いのか、団子のようにドアから顔を出していた3人の少年と一人の少女は、ぞろぞろと廊下に出ると、の言葉通りドアをしっかりと締めた。


「…………」
「…………」


目の前には、笑顔で整列する3人の男子生徒と、何故か目を潤ませてルーファウスを睨みつけている小柄で可愛らしい顔をした女子生徒。
何故女子生徒に睨まれているかは理解できないものの、ルーファウスはの疲労の真の理由を察し、同情が混じる目で彼女を見た。

若干引き攣った顔で呆れている彼女は、観念したように頭を垂れると、ルーファウスに視線で謝罪する。
気にするなと言うように口の端を上げたルーファウスは、が再び生徒に声をかけようとするのを遮るように、生徒達の前に立った。


「君達は、の教え子達か」
「はい。ミッドガル士官学校の生徒の、カーフェイって言います。よろしくおねがいします」
「僕はガイって言います。これから長くお世話になりますから、どうぞよろしくおねがいします」
「ん、あー、ジョヴァンニっす。先生にはお世話になってます。あ、神羅にも、お世話になってます」
「……間男」


体に入れたクリスタルの今後について、が世話すると言った人間だと察したのか、カーフェイとガイは真っ先に自己紹介する。
そんな二人に目を丸くしたジョヴァンニは、つられるように頭を下げて挨拶した。
が、次の瞬間アレンの口から出た言葉に、それまで笑顔だった3人の生徒達は凍りついた。

耳を疑い、その言葉の意味を脳内で吟味してみるが、彼の一言が初対面の相手へ対する言葉でない事は勿論、神羅の副社長に対する言葉でもない。
もしかすると、アレンは相手が神羅の副社長ルーファウスだとは知らないのかもしれないが、そんなものは理由にならないだろう。
馬鹿を顔面に貼り付けてみせていたカーフェイとガイも、流石に顔色を青くし、間もなく怒号を飛ばすだろうへと視線を向けた。


そこには、氷のような目をした鬼がいらっしゃいました。

慄く3人にはめもくれず、は未だルーファウスを睨んでいるアレンを見つめる。
私的な用で来たとはいえ、ルーファウスは士官学校の親である神羅の副社長だ。
既に渦中にある上下関係を省みず、上官に対して不敬な発言をしてしまったアレンを怒らないはずがない。


「アレン、お前は……」
「良い、。私は気にしていない」


凍りつく一同とは対象的に、ルーファウスは楽しそうな目をして口の端を上げている。
無礼などなかったかのような笑顔で、睨み上げるアレンを見下ろしているルーファウスがいた。


「教育が行き届かず、申し訳ありません。私の責任です」
「気にしていないと言っている。それとも、私は子供の悪戯に目くじらを立てるほど、器の狭い人間に見えているか?」

「……いえ、そのような事は……」


目くじらは立てないが、玩具にして遊びそうではある。
相手が本気なら本気なほど、からかって遊びそうだとは思う。

楽しそうな目をしているルーファウスを見て、そう思っただったが、口にはせずに頭を下げた。

空気が重い事には変わり無いが、怒った様子が無いルーファウスに安心して、ジョヴァンニ達はアレンの頭を下げさせる。
カーフェイもまた、同じように謝らせようとしたが、何処か違和感を覚えてルーファウスの様子を盗み見た。
唯一、ルーファウスの瞳の輝きに潜む悪魔を見抜いたガイは、頭を下げて謝罪するも、さりげなく距離を取っていた。


「君の名前は?」
「……アレンです」

「アレン…か。可愛らしい君によく似合っている」
「………………」


の怒りを感じ取り、アレンが大人しくなったのも束の間。
ルーファウスの口から出た禁句に、少年の顔には一瞬で青筋が立った。
再び睨みつけるアレンに、ルーファウスは楽しそうに口端を上げ、一歩彼に近づいた。


「年は?」
「15です」

「15……思ったよりも幼いな。……誕生日はいつだ?」
「……2月……」

「そうか。ではもうすぐ16歳だな。ならば安心だ」
「……は?」


妙な質問を繰り返した末、薄く笑ったルーファウスに、アレンは嫌な予感がした。
怪訝な顔であとずさった少年は、助けを求めるように教官へ視線を向けたが、彼女はそ知らぬ顔でそっぽを向いている。


「特定の恋人はいるか?いや、いたところで、私にとって問題にはならないが」
「近寄らないで下さい。僕、男です」

「……男?それは失礼した。だが安心して良い。私はあまり気にしない」
「…………は?」

「そうだな…君に姉はいるか?いるなら是非紹介してもらいたい。勿論、君を蔑ろにするつもりはない。そこは安心してくれ」
「……ぁ……ぁあぁ……」


性別の壁を無視して近づいてこようとする男に、アレンは顔を真っ青にしてプルプル震え出す。
少年が2歩3歩と後ずされば、同じようにルーファウスが足を踏み出し、二人は既に一同から少し離れていた。

親友の危機を前にしながら、ジョヴァンニは副社長の知られざる性癖に驚愕の表情で固まり、助けるという選択肢を忘れている。
両刀使いという人種を初めて見たカーフェイは、若干鳥肌を立てながら壁際に逃げ、残るガイは無表情で事の成り行きを見守っていた。
頼みの綱であるは、呆れた顔で二人を眺めつつ、小さく欠伸をしている始末。

追い詰めてくる変態副社長に、アレンは涙目で助けを探したが、手を差し伸べる意欲がある人は見当たらなかった。


「怯える顔も悪く無いが、そう警戒する必要は無い。私は、君に危害を加えようとは思っていない」
「ひっ……………」
「ルーファウス、そろそろ……」


足取りがフラつき始めたアレンに、はやれやれと言った顔でルーファウスを止める。
ちらりと振り向いたルーファウスは、物足りなさそうな顔をして見せたが、首を横に振ったに大人しく頷いた。


に言われては、仕方が無い。……今日はこれでやめるとしよう。」


肩を竦めて言ったルーファウスは、胸を撫で下ろすアレンを目にとめると、再び口の端を吊り上げる。
ビクリと震えた少年を見て、更に笑みを深くしたルーファウスだったが、すぐに元の冷めた表情に戻った。


「アレン以下3名は、今すぐ下に降りてホテルの外周を30周してくるように。エレベーターは使うな。階段で行け」
「え!?」

「不服なら……」
「行って来ます!」
「あ、廊下走んなよぉ」
「連帯責任か……。仕方ねぇな」
「行ってきま〜す」


この状況で口答えした場合、が更に周回数を増やす事を知っている少年達は、慌てて非常階段に向かう。
その姿を横目で眺めたルーファウスは、背中から聞こえた深い溜息に、の方へ振り向いた。


「随分と好かれているようだな」
「ええ、お陰様で」

「いつまで続けるつもりだ?」
「出来れば、彼らが卒業するまでは……。ですが、この状況では、不可能でしょう。冬を越えるまでが精一杯かと……」

「妥当だな。ではその頃を目処に、こちらも準備しておこう」
「…………出来るなら、貴方を巻き込む事も避けたいのですが……貴方も、聞いてくれないのでしょうね」

「暇潰しには丁度良い。私は私で楽しませてもらおう」
「……お手柔らかに」

「…………」


不遜に言うルーファウスに、は困ったように笑う。
それを横目で見たルーファウスは、一瞬何かを言いかけ、けれどすぐに口を閉ざして背を向けた。


「私はもう行く。お前も精々足掻くと良い。期待している」
「お気をつけて」


捨て台詞を残して廊下に消えたルーファウスに、はやれやれと息をついて踵を返す。
自室へ入り、窓から地上を見下ろした彼女は、1列になって走る生徒の姿を確認した。
見張りが無くとも真面目に走る彼らの姿に頷きながら見ていると、後列にいたカーフェイとガイが同時に体勢を崩した。
転んだのか。そう認識した瞬間、は自分の足元が水面のように歪んだ気がした。

「っ……!?」


何が起きたのか理解する間もなく、脳裏に生まれた雑音が広がり、遠くにある自分の魔力が枯れるように消えていく感覚に陥る。
突如抜けた全身の力に、咄嗟に窓ガラスに手をついたが、力が入らない腕では支えにはならない。
辛うじてあった平衡感覚が、自身の魔力と共に歪むと、青緑の霞に覆われた視界が目線の高さから一気に床の上まで落ちた。

倒れた衝撃を感じ、しかし痛みの無い体に驚く中、彼女は咄嗟に意識を強く持つ。
視界を遮る霞は変わらず、繋ぎとめる意識を飲み込むかのような騒音が、緩やかな風の感覚のように頬を霞めた。

その瞬間、微かに感じた花の香と、刹那視界に映った新緑の世界。
それが何故か、誰かが泣いている幻のようで、心が自然と知っている声を探そうとする。

けれど、捕らわれてはいけない。
近づく事を許せば、それは瞬く間に自身を飲み込んでしまうだろう。

感覚が朧になった掌を握り締め、誘い込む遠い世界に、初めて明確な拒絶を示す。
纏わり付く情景を引き剥がし、絆そうとする追憶を切り捨て、執着にさえ似た情を頼りにセフィロスの名を心の中で呼び続けた。

隣の部屋から床越しに伝わる振動と声から現実を掴み、霧を振り払うように目を開く。
押さえつけられた体を動かすように、渾身の力で身を起こし、全身に巡る魔力の流れを捉えて幻を振り払う。

「っ……っは……」

視界から消えた霧と静寂に変わった音に安堵する間もなく、酷いだるさが全身を襲う。
白に変わり始めた視界に気を奮い立たせ、肩で息をして酸素を取り込むと、彼女は壁に手をついて立ち上がった。

「ぐっ……っ……」

全身に纏わり付く、じっとりとした汗の感触に眉を潜め、彼女は窓の外へ目をやる。
倒れた二人の傍には、膝をつくアレンとジョヴァンニ、そしてルーファウスの姿があった。

騒がしくなった隣の部屋に、は額から伝う汗も拭わず部屋の外へ出る。
同じく隣の部屋から出てきたアーサーが、驚いた顔でこちらを見たが、彼が口を開く前には彼の襟首を引き寄せた。


「肩を貸せ。下に行く」
「その顔色で……」

「早くしろ!」
「っ……!」


荒げた声に、アーサーはビクリとすると、すぐに彼女の隣につく。
だが、彼がの腕を持ち上げた瞬間、同じ部屋から出てきたロベルトがの体を抱き上げた。


「ガイ達の所ですね」
「急いでくれ」


窓から様子を見ていたらしい二人は、すぐにを連れて非常階段を降りていく。
吹きつける夜の海風が、ただでさえ体温が低下した肌を冷やしていく。
二つの足音に混じり聞こえた車のブレーキ音に、億劫な体で道路を見れば、ルーファウス達の傍に1台の高級車が停まった。
そこから暢気な動きで出てきたのは、よく見知った赤毛の男。続いて、久しく顔を見ていない、黒髪のソルジャーだった。


「……ザックス……?」


何故彼が此処に?

そう思っている視線の先で、新たにやってきた二人は倒れている生徒の襟首を掴むと、荒っぽく頬を叩いて起しにかかる。
驚く生徒と、呆れたルーファウスの視線を眺めながら、は小さな溜息をついた。


2010.05.05 Rika
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