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目の前には、天上に広がる青と、大地に広がる緑。
降り注ぐ日の光にまぶしさを感じる事は無く、新緑を撫ぜる風を肌に感じる事もなかった。

傍らにある壁は、今しがたまで目にしていた宵闇の中のそれと変わらず、緩やかな起伏を見せる地平にも変わりは無い。
朝と言うには日は高く、けれど、真昼の陽光に温もりはなく、ただ光るだけの存在のよう。

夢と言うには、情景は鮮明で、現実と言うには、虚ろな感覚だった。


波間を漂うような揺らめきを感じる。
それは世界か、はたまた自分か。

揺れる世界に、虚ろな感覚で見る世界に、目の前に立つ誰かがいた。
薄紅の服、薄紅のリボン、栗色の髪、翡翠色の瞳。
何処かで覚えがあるようで、けれど記憶を手繰るには全てが朧過ぎた。
まるでこの世界のように、目の前の存在が意識の中から掻き消える。

今、自分は過ぎた時の中にある。
漠然とする思考の中で感じながら、それが過去か未来かもわからない。


ただ、声が聞こえたのだ。

彼の声が
名を呼ぶ声が

零れる事の無かった涙が
崩れ砕け壊れてしまった心が





呼んでいた





Illusion sand − 88








−セフィロス…?−


唇から紡がれた言葉は、声にならないまま世界に溶ける。
目の前の誰かが微かに息を呑んでも、それは過ぎ去る風のように、思考を引きはしなかった。

ただ、声が聞こえる。
終焉を願うように、名を呼ぶ彼の声が…。


−…何処に…−


私は何処にいる…?


漂わせた視界に、彼の姿は無い。
揺らぐ世界の中、靡く銀の髪を捜しても、広がる情景にその色は無かった。

見上げた空に、陽の下を泳ぐ白を見つける。
けれど、風に流されるその色は、彼じゃない。

彼の声は近く、けれど果てしなく遠かった。


−私は…此処にいる…−

私は何処にいる?

−貴方の傍に…−

どうして貴方の傍に居ない?

−…貴方を1人にはしない…−

共に生きたいと願った…。だから…

−誓いを…−


『貴方…』


知らない声。
揺れる翡翠の瞳が、目の前の少女が、驚いた顔で見つめていた。


『あの声の…人?』


答えがわからない。そんな事はどうでもいい。私はただ…


−彼が…呼んでる…−


泣いてる

だから


−誓いを…守らなければ…−


『…誓い…』


−彼の心を…守らなければ…−



『……泣いてるの?』



違う


泣いてるのは……


貴方だ


−セフィロス…−



どうして……


貴方の傍に私がいない…?






彼がいない世界が歪む。

大地が波打ち

雲が渦巻き

風の音が暴れ

青い空が闇に染まって





落ちてくる――










「…っ…」

虫の音が聞こえた。

真横になった大地と、そこから生える緑に、は瞬きを繰り返す。
微かに痛む体は疲労に包まれ、汗に濡れた肌の上を冷たい夜風が撫でていった。


「………?」

静けさに揺れる草原の声と夜の闇が空を支配し、頬に感じた冷たさは草と土の匂いを彼女に届ける。
霞がかかったような頭の中を無理矢理叩き起こし、視線を彷徨わせると、漸くは自分が地面に転がっている事を理解した。

鈍る思考を無理矢理働かせて記憶を探るが、こんな場所で寝た覚えは無い。
宿に戻ろうとした時にでも倒れたのだろうかと考えながら、彼女は疲労に重い体を起き上がらせた。


「……ぐっ……!?」


上体を起した途端、ぐらりと揺れた視界に、彼女は慌てて地に付く腕へ力を込める。
動くだけで揺れるような頭に、出したくなる舌打ちさえ出せず、はきつく目を閉じて息を吐いた。

背を撫でる奇妙な感覚に、ちらりと横目で振り向けば、先程出した魔力が陽炎のように揺れている。
星の力に干渉されている元自分の魔力が、ただでさえ優れない心を余計に病ませるようだ。

力の入らない目でそれを軽く睨みつけると、は這うように魔力の歪みから離れた。
まるで腰が抜けた老婆だと思ったが、外見年齢を除けばその通りなので、悪態をつく気も起きない。

ズリズリと這って移動し、漸く魔力の歪みから離れると、は壁に背を預けて溜息をつく。
回転が鈍くなった頭は、事後策を考えるだけの機能を持たず、今しがたの夢ばかりを繰り返していた。


「……馬鹿馬鹿しい…」


預言者になった覚えはない。予知夢を見た事も無い。
なのに、あれを夢だと割り切れないのは、事が立て続けに起きすぎて混乱しているせいだろうか。

目を閉じれば、虚ろで確かな、しかし自分の存在が朧だった、あの夢の世界が戻ってきそうな気がする。
身の内を空にするような喪失感は、夢に心捕らわれてしまう一時の迷いに過ぎない。
瞼の奥に残る彼が呼ぶ声は、すぐに記憶の残骸になるだろう。刻み付けたくはなかった。


−何故、彼の傍に私がいない?−


油断すれば、夢の記憶に捕らわれる。
夢を肯定するとしたら、原因は無くとも切欠は転がっているもの。
あからさま過ぎる主張は、考えるまでも無くそれを教え、は未だ揺れる魔力の歪みに目をやった。

倒れていた位置から考えて、恐らく原因はあの歪みに触れてしまったからなのだろう。
けれど、ただの魔力の塊がそんな予測に対して律儀に答えてくれるわけが無い。
陽炎のように揺らめく魔力を睨んでみるが、揺れる様は何処か暢気にも見えて、嫌悪も溜息も失せてしまった。

鬱々とする心を晴らせないのは、思っている以上に夢を気にしているからなのか。
振り払うに難をする夢の記憶は、悪態をつく気力さえ奪うようで、益々気分を滅入らせる。

確かめる術も、何を確かめるのかも知らない。
だから彼女は、この胸に沈み込むような心地悪さを、ただの夢だと言い聞かせる。
納得出来ない自分を、無理矢理にでも黙らせる術は、それ以外になかった。


「本当に…次から次へと……」


充実していると言えば聞こえはいいが、この世界に来てから事が起きてばかりだ。
狭間に行く前の旅ですら、もう少しゆっくり生きていた気さえする。
我侭だと言えばそれまでだが、100数年越しで手に入れた老後なのだから、ゆっくり過ごさせてほしいものである。


「年寄りは労わらんか…」


外見年齢20代の女の口から出るには違和感がある言葉を吐いて、は億劫そうに立ち上がる。
壁に手をつき、ゆっくりと宿の入り口へ向かうと、平原の向こうから近づいてくるトラックの明かりが見えた。

方角から考えると、恐らく湿地から戻って来たソルジャー達だろう。
彼らが戻ってくる時間という事は、自分は結構な時間倒れていた事になる。そうでなければ、何か理由があって早く戻って来たか…。

どちらであろうと、セフィロスがいないことには変わりないだろう。
ならば、外で待っている意味は無い。

エリクサーと万能薬を飲んで、さっさと休むに限る。
マトモな戦闘が望めないだろう体に、は一度大きく溜息をつくと、宿の中に入っていった。


















「……ろ」


うるさい…


「…きろ、


まだ体が寝たがってるんだ…


「……、起きろ」
「黙れ…」

「…………」
「…ぐー…」


ドスの効いた声で一声呟くと、は再び寝息を立て始めた。
初めて向けられた反応に、セフィロスは呆れるやら、感心するやら。
毛布に包まったまま、呼んでも揺すっても顔を出そうとしないに、彼はつい苦笑いを零した。

明け方の部屋は薄暗く、霜が張り付いた窓ガラスからは、薄青に変わり始めた空が見える。
周りのベッドは全て空で、主がいるのはのベッドだけだ。
扉の向こうからは早い朝食をするソルジャーと生徒達の声が聞こえているのに、いつもは僅かな人の気配でも起きる彼女が目覚めないなど珍しい。

生徒達に、が起きないと言われたのは数分前で、それからセフィロスはずっとを起そうとしている。
だが、当の本人は目を開ける事もしなければ、身じろぎする事もなく、漸く反応が帰ってきたと思えば「黙れ」の一言。

一度意識を失うと、それまでの我慢強さが災いして、暫くは振り回しても叩いても目を覚まさない女だ。
だが、普段の眠りは浅いので、この状態は何処か体調が芳しくないという事だろう。

ベッドサイドに置かれたエリクサーと万能薬の空瓶に目をやり、セフィロスは毛布に顔を埋めるを見る。


「……何があった?」


体調が優れないと言って、生徒たちより早く休んだは、セフィロスが戻ってきたら起して欲しいと言伝したらしい。
わざわざ行軍途中にそんな事を頼むのだから、何か話があったのは間違いない。
日付が変わる前に宿に戻って来たセフィロスに、言伝を頼まれたソルジャーはを起そうとしたらしい。
だが、彼女は全く目覚める気配がなく、ソルジャーはそれをセフィロスに知らせると、打ち合わせをしてすぐに休んでしまった。
その後、セフィロスも彼女を起そうとしたのだが、結果は同じだ。
おかしいとは思っていたが、自分も休みたかったので翌朝にしようと思い、セフィロスはを起すのを諦めた。

しかし、流石に朝になった今、そのまま寝かせておくという事は出来ないだろう。
何しろ、30分後には此処を出発して湿地を越え、午前中には洞窟も越えなければならない。

荒業だが仕方が無いと考えると、セフィロスは毛布を剥ぎ取り、の首筋に正宗を当てて殺気を放った。


「起きろ、
「…………」


薄く目を開けた彼女は、虚ろな目で首もとの刃に目をやる。
半覚醒のに、セフィロスはまだ足りないのかと内心つぶやきながら、彼女に向ける殺気を強めた。



『コレヲテバナセ』


意味不明の…聞いた事のない言語を呟いたに、セフィロスは片眉を上げる。
寝惚けているのかと怪訝な顔をする彼に、彼女はゆっくりと視線を交えながら、突きつけられた刃に触れた。


……」
『アイイレヌモノマジワルコトカナワズ、トモニアユムハユメミゴト、キボウハステヨ、ユルサレザルモノノソンザイハアラタナナゲキヲウム、サダメニトキハナタレシアワレナタマシイニナンジハエイゴウノロウゴクヲアタエヨウ』

「っ…待て、……」
『コトナルセカイニワレラノチカラハオヨバヌ、コレノチカラナンジヒトノミニナレドモトモニホシニカエルコトカナワズ、トワノイノチニトケルコトカナワズ』


言葉を挟む間もなく言葉を紡ぐ彼女に、セフィロスは呆気にとられながら剣を引く。
何を言っているのか聞き取ろうとしてみるが、その声は全く意味を成さない音を続けるばかりで、セフィロスは首を傾げるしかない。
離すまいとするように瞳を捕らえる彼女の目は、まるで全てを見透かされる錯覚を覚えた。


「……寝惚けているのか……?」
『コレハワレラガモウシゴ、コレガカエルハワレラノセカイ、コトナルヨニハテルコトカナワズ、コレノタマシイハトワニサマヨイツヅケヨウ』


僅かに恐怖を訴える自分の体に疑問を持ちながら、セフィロスは床に膝をついての顔を覗きこむ。
の様子がおかしいと思いながら、しかし彼女の雰囲気は普段と変わりないようにも思えた。

言いたい事は言い終えたのか、彼女は口を閉ざすと、セフィロスの顔をじっと見つめてくる。
試しに、セフィロスは彼女の頬が赤くなるだろう距離まで顔を近づけてみたが、当のは無表情のまま、まばたきもせずにじっとしていた。


、いい加減目を覚ま…」
『トキハナイ』


髪に触れようとした彼の手を掴んで、はまた謎の言語を話す。
どれだけ寝惚けるのかとげんなりしかけたセフィロスだったが、彼女に捕らえられた自分の手が震えている事に気が付いた。

「何……、っ!?」

何故、と思った瞬間、震える腕を強く握られ、セフィロスの体は己の意思とは関係なく、彼女の手を振り解こうとする。
だが、一体どういう事か。
さほど力は無いはずのの手は、骨が軋みそうな程の力でセフィロスの腕を捕らえ、全く自由を許そうとしない。
驚いたセフィロスはの顔を見たが、彼女は腕の事など知らないように、じっと自分を見つめていた。


、これは……?」
「我らが申し子を手放せ」

「!?」


掴まれた腕から、彼女の言葉の意味と共に、何かがセフィロスの体に流れ込んでくる。
不快を訴えて細胞が暴れる感覚に、暴走しそうな体を抑えようとする彼は、突如脳裏を過ぎった鮮やかな光景に息を呑んだ。

流れ込む力の中、僅かに覚えた既視感が、彼女を迎えに足を踏み入れた世界と重なる。
捕らえられた腕から木漏れ日に似た温もりが広がる中、七彩の花弁が頬の横を過ぎ去り、溢れるような新緑の香りが体の中をすり抜けていった。


「……っ…」


突如掴まれた腕が解放され、同時にセフィロスは一瞬の夢から覚める。
自身に起きた異変に呆然とする彼は、今しがたの事が嘘のように静かな寝息を立てるを見つめた。


「…んー………うん…?」


小さく呻き、ゆるゆると瞼を上げたは、覚醒しきらない顔でセフィロスへと視線をむける。
数秒彼の顔を見つめ、辺りを見回した彼女は、再び彼に視線を合わせると何度か瞬きを繰り返した。


「…セフィロス?」
「………」


寝起きのかすれた声で呼んでも、セフィロスは答える事無くじっと見つめてくる。
冷えた空気と薄暗い室内に、明け方なのだろうと考えただが、無言で見つめてくる彼に頭の中は疑問だらけだった。

よくわからないが、周りのベッドが空という事は、既に起床時間を過ぎているという事だろう。
彼の態度は、引率のくせに寝坊した自分に呆れているからなのだろうか…。

人の気配で目が覚めなかった自分に、は少々驚いたが、昨夜の疲労を考えれば納得は出来る。
セフィロスが戻ったら起して欲しいと言ったはずだが、この様子では恐らく自分は目を覚まさなかったのだろう。

出来れば昨夜の事について、彼とゆっくり話をしたかったのだが、状況を考えるとそんな事は出来ない。
道中時間を作って話すしかないと考えると、はゆっくり起き上がった。


「おはようございます」
「………ああ」

「遅れてしまって申し訳ありません」
「…………」

「…………」
「…………」


一応答えはしたものの、何故かまじまじと見てくるセフィロスには怪訝な顔をする。
何か言いたい事があるのだろうかと待ってみても、彼は何も言わないし、怒っている様子も無い。

…何なんだ…?


「……あの、セフィロス…どうかなさいましたか?」
「………いや、…何でもない。30分後に出発だ。早く準備をしておけ」

「ああ…、はあ…」


濁すように答えたセフィロスは、スッと立ち上がると、首を傾げるを置いて部屋を出て行ってしまう。
わけがわからない彼の態度に、半ば唖然としながら見送ったは、とりあえず出立の準備をしようとベッドから出た。

「熱っ…」


動いた瞬間胸に当たった熱さに、は慌ててそこを見る。
着の身のままで床についていた彼女は、昨日と同じ服だったが、襟は少しボタンが外れているだけで、他におかしな所は無い。
寝惚けて熱した鉄を入れたわけでもあるまいし、一体が熱かったのか。
火傷する程でも無いが、放置する気にもならず、彼女は恐る恐る襟を開けた。


「……?」


熱から温みに変わった感触は、胸元で淡く光るクリスタルから伝わってくる。
無意識に魔力を注いだ覚えは無く、クリスタルが勝手にそうなった事も、今まで一度たりとも無かった。


「……何かしたか?」


徐々に光が消えていくクリスタルをつまみ上げ、は独り言のように呟く。
何かしら返答があるかと思っていたが、クリスタルは沈黙したままで、やがてただの水晶に変わった。


「…………」

…うむ。意味がわからん。


昨夜の事が原因の一つかと思いもしたが、それにしてはクリスタルの反応は遅すぎる。
恐らく、どれだけ頭を捻ったとしても、今の自分には分からないだろうと考え、はパッとクリスタルから手を離した。

ドアの向こうからは、既に起床した生徒達の話し声が聞こえてくる。
生徒を置いて寝坊など、引率教官としてはあるまじき事。
目覚めから少々頭が痛くなる気がしながら、は1つ溜息をついて部屋を出た。





2009.03.23 Rika
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